第56話 一人で行かせられない
「真琴ちゃん? 」
受話器の向こうから聞こえる叔母の声は、心なしか強張っているように聞こえた。
周囲のイルミネーションの輝きが、急に遠くのものに感じられる。
「はい。お久しぶりです」
「今、大丈夫? 」
「えぇ」
「さっき、お母さんに電話しても繋がらなかったから、LINEだけはしておいたけど」
「お母さん。今、韓国に出張中なんです」
「そう……」
叔母さんの息を吸う音に、思わず身を固くする。
「お兄ちゃんが事故に遭った」
街の雑音をかき消すような、重苦しい沈黙がスピーカーの向こうから伝わってくる。
「え……」
映画館の余韻も、さっきまで感じていた手の温もりも、一瞬で頭の中から消える。
街中のイルミネーションが、一斉に色を失った気がした。
「まだ詳しいことは分からないけど、病院に向かってる」
……声が出て来ない。
「真琴ちゃんにも知らせた方がいいと思って、一応、病院先だけLINE送るね。また、分かったら連絡する」
一方的に告げられて、ツーツーと無機質な音が鳴る。
「泉さん? 大丈夫?? 」
覗き込んできた八乙女さん。
さっきまで世界で一番愛おしかった笑顔が、今はひどく滲んで見えた。
「泉さん? 何があったの!? 教えて」
言葉がうまく組み立てられない。スマートフォンを握る指先が、小さく震える。
「泉さん、手……冷たっ」
八乙女さんが、私の両手を包み込むように握り直した。私の手を温めるように、ぎゅっと力を込めてくれる。
その手の温もりで、かろうじて凍りついた理性が動いた。
「……お父さんが」
掠れた声が、自分のものとは思えないほど低く響く。
「お父さんが、どうしたの? 」
「事故に、遭ったって……」
そう口にした途端、視界がかすかに揺れた。
何も分からないから怖い。
「詳しい事は分からないけれど、叔母さんが、札幌の病院に向かってる」
私の言葉に、八乙女さんは一瞬だけ目を見開いた。
クリスマスイブの浮かれた街の中で、私たちの周りだけ、時間が止まってしまったかのようだ。
けれど、八乙女さんはすぐに私の手をさらに強く握りしめた。その強い力に、現実へと引き戻される。
「札幌の病院……。ねぇ、今から行こ」
「え……? 」
突然の提案に、思わず声が裏返った。
今から簡単に行ける距離じゃない。
「悩んでる暇ないじゃん。飛行機、調べる」
八乙女さんはバッグからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで検索を始めた。
「仙台空港から……」
ネイルの施された指先が、恐ろしい速さで画面を滑っていく。
「JALは満席……ANAもダメ……」
一瞬だけ表情が曇る。
「……あっ! 」と、言いながら、八乙女さんは、勢いよく顔を上げた。
「AIRDOの最終便だけ、まだ二席ある! 」
「じゃあ……」
「19時30分発だから、まだ間に合う! 」
スマートフォンの画面に照らされていた、八乙女さんの瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「アタシも一緒に行く」
迷いのない一言に、自分の耳を疑った。
私の家族のことだ。クリスマスイブなのに、八乙女さんまで巻き込みたくない。
「大丈夫……一人で行けるから」
努めて冷静に、いつもの調子で言った。
「ダメ」
「ダメ……?」
「今の泉さんを、一人で行かせられるわけないじゃん」
八乙女さんのスマホの画面に表示される、二席分の空席。
その指先が、迷いなく購入を確定した。
「予約する」
「お金は……」
「あとで良いから! 」
八乙女さんの「取れた」
その一言で、ようやく動き出せた。
空港までの電車に乗り込む。
私たちの間に、流れる重苦しい沈黙。
電車の揺れさえ、気にならない。
何度もスマートフォンの画面を点灯させては、LINEを開き、叔母さんとのトーク画面を見つめる。
閉じる。
また開く。
何も変わっていない。
画面は静かなままなのに。胸の中だけが、騒がしかった。スマートフォンを握る指先に、力が入る。
滑り込んだ仙台空港のロビーは、大勢の人で賑わっていた。
誰かが笑っている。誰かがプレゼントを抱えて歩いている。
クリスマスイブ。
数時間前までは、自分たちもあの『幸せな誰か』の側にいたのに……
さっきまでの時間が、遠い昔のことみたいだった。
保安検査場の長い列に並びながら、またバッグからスマートフォンを取り出す。
画面は、さっきと何も変わっていなかった。
「……まだ、連絡ない」
かすれた声が漏れた。
何も言わず、私の手をぎゅっと握る八乙女さん。
「大丈夫」
その一言が、本当かどうかなんて分からない。それでも、八乙女さんは私の隣にいてくれる。
その小さな手のぬくもりだけが、今の私を辛うじて繋ぎ止めていた。
搭乗口前のベンチに座っても、私の指先は何度もスマートフォンの画面を開いていた。
『――仙台発、札幌・新千歳行き、最終便をご利用のお客様をご案内いたします』
無機質なアナウンスが、静かなロビーに響き渡る。
――北海道へ向かう。
その当たり前の事実が、ようやく現実として心に落ちる。
「……なんで、連絡がないの……」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「なんで……」
同じ言葉しか出てこない。
そっと私の肩に寄り添う、温かな重み。
何も話し掛けて来ない……けれど、一番近くに、そっといてくれる。
機内に入り、指定された座席に腰を下ろす。
離陸前の最後のアナウンスが流れ、私は手の中のスマートフォンを見つめた。
静まり返ったままの画面。
電波が切れる。北海道に着くまで、もう誰とも繋がれない――世界から、小さく切り離される。そんな気がした。
……もし、その間に何かあったら。
じわりと冷たい汗が滲む指先で、機内モードのアイコンをタップした。
すうっと画面の電波マークが消え、小さな飛行機のアイコンに変わる。
スマートフォンをバッグへしまう。それだけで、心細さが一気に押し寄せた。
――ぎゅっと、隣から手が伸びて、私の指先を包み込んだ。
顔を上げると、八乙女さんが私の目を見つめて、静かに頷いていた。
(大丈夫)
声にはならなかったけれど、彼女の唇がそう動いた。一人じゃない――私は何回も何回も八乙女さんに救われる。
機体が激しい加速を始め、身体がふわりと浮き上がる。
窓の外で、仙台の灯りが少しずつ小さくなっていく。さっきまで八乙女さんと歩いていた街。
プレゼントさえ買えず、台無しにしてしまった、クリスマスデート。
ほんの数時間前まで、今日は一番幸せな日になると思っていた。未来なんて、こんなにも簡単に書き換わってしまうんだ。
……自分の不安を消し去るように、八乙女さんの手をギュっと握り締めた。
どうか、無事であってほしい。
吸い込まれていく真っ暗な夜空の向こうを見つめながら、私はただ、それだけを祈り続けていた。




