第53話 ほっぺなら
帰りのホームルームが終わり、先生が教室を出たと同時に八乙女さんの席を見る。
ちょうどバッグを肩に掛けるところだった。
何気ない仕草なのに目を奪われる。
今日は髪の調子が良いのか、毛先が柔らかそうに揺れていた。
可愛い。
本当に可愛い。
どうして私は毎回見惚れてしまうのだろう。
私の視線に気付いたのか、八乙女さんはバッグを肩に下げると、小さいため息を吐いていた。
八乙女さんが、こちらに近づいて来るたびに、バッグに付いてる星型のキーホルダーも揺れる。
隠さなければいけない切なさと同時に、「二人だけの秘密」という特別感にどこか酔い、歪な喜びを感じてしまう。
あの、おんぶ事件以来。怪しむ人たちも少なからずいたけれど、表向きは『仲の良い友達』で通っている。
『その子は、私と付き合ってるんだよ』って。
だから、必要以上に話し掛けたり仲良くしないでね……歪んだ独占欲が私を支配していく。
「おーい? 泉さん?? 」
目の前で手をひらひらと振られて、そこでようやく我に返った。
ふわりとジャスミンの香りが届く。
自分の世界に入ってしまった。いつの間にか机の前に立って、私を見下ろす八乙女さん。
普段はあまり見ない角度だけれど、愛おし過ぎる。
「今日からでしょ。期末テストの勉強」
「ええ」
「じゃ。図書室、行こう。」
普段は行くこともない図書室。場所もうろ覚えだったせいか、結果的には遠回りをして着いた。
ドアを開けて入ると、同じようにテスト勉強でもしているのか、まばらに席は埋まっていた。
「叶乃? 」
受付には、大きな図鑑を立てて読んでいる黛さん。
「めるち……ファッション雑誌は置いてないよ」
「勉強しに来たんだよ」
「え? めるちが図書室で勉強……止めてよ。傘持ってきてないし」
「失礼な。ってか、図書委員の仕事? 」
黛さんは「面倒くさいけど」と、言いながら頷く。
どうしても大きな図鑑が気になり、黛さんに聞いてみた。
「黛さんって、美術に興味あるの? 」
「え? ぜんぜんないよ……あぁ、これ? 」
黛さんが美術全集なる図鑑を持ち上げると、横向きにスマホが置かれていた。
「暇だから、動画観てた」
図書委員って、そんなに自由なのだろうか。
「叶乃も、暇なら勉強しなさいよ」
「うへ〜。めるちから『勉強』って、言葉が出るたびに雨降りそう」
「はいはい、濡れて帰りなね」
軽口を叩き合う二人を見るのは楽しい。だいたいは黛さんの軽口に八乙女さんが突っ込んでいるけれど。
「まぁ。良いや、頑張ってね」
「う、うん。頑張るけど」
八乙女さんの声が少し上ずった。 私が一歩踏み出した、その時だった。
「勉強も……赤点取ると面倒だから」
カウンター越しの黛さんが、私たちを見る。
何か含みのある言い方だった。
けれど。正直、それよりも気になったのは。
「泉さん。行こ」
八乙女さんの方だった。少しだけ早口で。
少しだけ落ち着かなくて。その反応が、妙に可愛かった。
窓際の最後列。横並びに座る、私たちの距離は椅子ひとつ分もない。左に八乙女さんがいる分、鼓動が聞こえないか心配だった。
勉強が始まってからも、文字を追うふりをしながら、隣に座る八乙女さんのシャーペンの音に耳を澄ませる。
癖なのか、八乙女さんは考える時にペンを指の間でシーソーのように動かす。
カチ、カチ。
静かな図書室では、その小さな音さえ妙によく聞こえた。
勉強を教える側なのに。
私は問題集よりも隣の音の方が気になっていた
「ここ、分かる? 場合分けが多すぎて頭こんがらがってきた……」
八乙女さんが小さな声で囁きながら、問題集をペンで指した。
見てみれば、グラフの軸に文字が含まれている2次関数の問題だった。
「ほら、ここにグラフ描いてみて」
私は自分のシャーペンで、八乙女さんのノートの余白をトントン、と小さく叩いた。
「あ、そっか……。グラフを動かして考えればいいんだ」
教えてあげると、意外。と言っては失礼過ぎるけれど、八乙女さんは一回で分かってくれた。
理解した八乙女さんが、ノートにペンを走らせ始める。
耳に掛けた髪の隙間から、耳朶で小さく揺れるピアスが見えた。
そして、その少し上。
アウターコンクには、ゴールドの星形ピアス。
昨日、一緒に選んだキーホルダーと同じ形。
八乙女さんに、問題の説明を続けようとして、言葉が止まった。
近い。
ほんの少し身体を寄せただけなのに、甘いシャンプーの香りが届く。
ノートを見るべきなのに。
視線はペンを動かす指先や、真剣な横顔ばかり追ってしまう。
勉強を教えているはずなのに。
私の方が、全然集中できていなかった。
――ダメだ。一回集中しよう。
深く息を吐き出し、シャーペンを握り直した。
一位を取る。これだけは絶対だ。
八乙女さんのせいで成績が落ちた。そんな風に思われるのは嫌だった。
私自身も嫌だし、何より八乙女さんに申し訳ない。
シャーペンの先が、ガリガリと小気味よい音を立てて白紙を埋めていく。
解法の手順がパズルのようにはまり始める。
雑音が消えた。
世界がノートと数式だけになる。目の前の数字の羅列を、ねじ伏せることだけに思考を尖らせた。――よし。私は私のやるべきことをやる。
ちゃんと一位を取り返す。
「泉さん。いま、大丈夫? 」
手を止めて、八乙女さんを横目で見る。集中していたからか、目も乾いてるし首も肩もガチガチに強張っていた。
「どうしたの? 」
「ごめん。分かんなくて」
問題集を私のノートの上に重ねるようにして滑らせてきた。
「ここなんだけど」
掠れた小さな声と同時に、二の腕にトン、と軽い衝撃が走る。
覗き込んできた八乙女さんの肩が、私の二の腕にピタッとくっつく。
厚い制服の生地をとおして伝わってくる、八乙女さんの確かな体温。
――落ち着いてほしいのに、心臓が、言うことを聞かない。
さっきまで頭の中を占めていた数字の羅列が、一瞬で消えてしまった。
差し出された問題集。八乙女さんのシャーペンが示す場所を探すように
「どこ? 」
「いや。ここじゃんね」
独特の口調で小さく笑う八乙女さんがシャーペンで示していたのは、私の問題集の左下だった。
『一位返り咲き。Fight』
満面の笑みを浮かべた、ちびめるちがポンポンを持って応援していた。
「可愛い」
「でしょ。ちびめるち、チアリーダーバージョン」
「可愛いけど、書いてたの気付かなかった」
「泉さん。めちゃくちゃ集中してたから、少し息抜きとか、どうかな。って」
『アハハ……』と、いつもの自信無さげなのに、笑って許したくなる笑顔をする八乙女さん。
ちびめるちも可愛い。でも、隣にいる本物の方がずっと可愛い。
「……邪魔してたら、ごめん」
「そんなことない」
目薬をさしてから、椅子の背もたれに体重を預け、両腕を天井へ向かってぐっと突き上げた。
背骨がひとつずつ伸びていくような心地よさに、思わず小さく、声にならない吐息が漏れる。
私に釣られるように、八乙女さんも「んーー」と小さく、可愛らしい声を漏らして両腕を上げた。
ぐっと身体が反らされ、八乙女さんのセーラー服とシャツの裾が、少しだけ上に引っ張られる。
ほんの数センチ、露わになった細い腰のラインと、引き締まったお腹の白い肌。
――心臓が一瞬にしてドクンと大きく跳ねた。
背徳感に襲われながらも、私は横目でその眩しい肌を盗み見ずにはいられない。
もっと見たい……
「……どうしたの?」
腕を下ろした八乙女さんが、不思議そうにこちらを覗き込んできた。その表情が近くて、八乙女さんの唇だけが、妙に鮮明に視界に飛び込んでくる。
「別に」
鳴り響く鼓動を悟られないよう、慌てて目の前の問題集へと視線を落とした。
勉強を再開して、しばらくすると
「できた!! 」
静まり返った図書室に、八乙女さんの弾んだ声が小さく響いた。
「見て見て、解けた!」
得意げに見せてくるノート。
確認をしたけれど……正解。途中式も問題ない。
「うん。ちゃんと出来てる」
「泉先生のおかげじゃんね」
きらきらと輝く瞳が『早く褒めて』と無言のオーラを全身から放っている。
アウターコンクの星型ピアスさえ、八乙女さんの嬉しさを引き立てるように誇らしげに光っていた。
八乙女さんの頭を優しく撫でる。
「子供扱いしてる? 」
「恋人扱いだけれど」
「な、なにそれ……」
「褒めたかっただけ」
俯いた八乙女さんの顔は赤く染まっていた。『そういうとこじゃんね』と、呟く八乙女さん。わずかに開いた、湿り気のある唇……
―……あ、ダメだ。本当にズルい……
「八乙女さん」
「な、なに? 」
ノートへ視線を落としたまま、八乙女さんは返事をする。
今なら、まだ引き返せる。
図書室だし、人もいる。勉強しに来たのだって忘れていない。
それでも……
「キスしていい? 」
自分でも驚くくらい自然に口から出ていた。
「は? 」
八乙女さんの手が止まる。
数秒の沈黙。
「ダメに決まってるでしょ」
「……そう」
分かっていた。図書室だし、人もいる。断られる方が普通だ。
それでも。抑えられずに言ってしまった、私が悪い。
問題集へ視線を戻す。けれど、数字が頭に入ってこない。
それから数分。
図書室にはページをめくる音だけが静かに響いている。
「……泉さん」
「なに? 」
問題集へ視線を落としたまま返事をすると、八乙女さんは何故か周囲を見回し、『前。斜め。窓の外……よし』と、独り言を呟いた。
八乙女さんが、小さく息を吐く。
「ほ……ほっぺなら」
「え? 」
思わず顔を上げる。
八乙女さんは、すでに参考書やノートを机の上で立て始めていた。
「一回だけだからね」
即席の壁。
外からは見えないけれど、こちらからもほとんど見えない。
その行動に、心臓が一気に騒ぎ始める。
「見えない? 」
「たぶん。大丈夫じゃんね」
「たぶんってなに」
「し、知らない」
そう言いながらも、八乙女さんの耳は真っ赤だった。
私は、自分がする側だと思っていた。
だから。八乙女さんが少しだけ身体を寄せてきた時。 思考が止まった。
「……八乙女さん? 」
距離が近い。近すぎる。ジャスミンの香り。
揺れるピアス。真っ赤な耳。
そして。
柔らかな、あたたかい感触が、私の頬にそっと触れた。
ちゅっ。
二人で作った静かな空間に、小さな音が優しく広がる。
数秒。いや、実際には一秒もなかったと思う。
頬に残った温もりが、小さな栞みたいに、この瞬間を閉じ込めてしまった。
先に離れたのは八乙女さんだった。 顔を真っ赤にしながら、椅子へ座り直す。
「ハイ、終わり! 」
満足……そんなわけがない。
「もう一回」
「ダメ」
即答だった。
「八乙女さん」
「ダメ! 」
「まだ何も言ってない」
「どうせ同じこと言うでしょ」
その通りだった。私は小さく息を吐いて、問題集を開き直す。
「勉強に戻ろう」
「泉さん。集中出来そ? 」
「無理」
「じゃ。集中して」
八乙女さんに視線を向けた。
「しなくても。一位取るよ」
そう告げると、八乙女さんが「くっ……ごにょごにょ」と、何かを呟きながら、拳を強く握り締めた。
小さな拳を固めて震えている姿は、小動物みたいで本当に可愛い。
つい、口元が緩んでしまう。
頬に残る熱のせいで、その日最後まで集中は戻らなかった。




