第17話 ピアノ ①
ポケットから取り出した目薬を見つめてしまう。
土曜日から、八乙女さんの事ばかり考えている。
今日も八乙女さんと練習が出来ると思ってたのに、八乙女さんはバイトに行ってしまった。
急遽、シフトに入ることになったみたいだし仕方ないよね。
ダメだ集中が切れている、もう終わろうかな。
気分を変えようと目薬をさす……この目薬も結局は同じものを買ってしまった。
八乙女さんから、もらった目薬はミルクティーと一緒に飾ることにした。
八乙女さんがさしてくれた、あの目薬は。特別な意味を持ってしまったから。
そんな事して、何の意味があるのか。
頭では分かってはいるのに、心ではどんどん増えていけば良いと思ってる私がいた。
『同じ班になろう』……八乙女さんに不意打ちのNOを突き付けた。頭での理解も心の準備も足りてなかった。
足りてたのは、理由も言わず断りを入れた『言葉』だけだった。
理解が追いついて来ると激しく後悔した。今まで、近付けなかったものが、向こうから近付いてくれたのに。
近づき過ぎて友達以上の想いを知られてしまったら。と、言う恐怖心が『このままで良いじゃない』と、囁く。
今まで通りに、遠くから観てるだけの憧れの人。で終われるかもしれない。まだ、今なら引き返せる。
それでも何も出来なかった、可哀想な過去の私を否定したくない。
私の事なんて、沢山いるクラスメイトのなかの一人。と、しか思ってなかったはず。
嘘の彼氏役を頼まれた時もきっとそう。
少しでもそこから抜け出したくて、勇気を振り絞り班に入れてもらった。
『友達』として、八乙女さんの近くにいたい気持ちも本物にしていきたいから。
陽だまりみたいな声。八乙女さん自体が、陽だまりみたいに、温かく私を優しい気持ちにしてくれる。
どうしても八乙女さんの事を考えると、思考や心が重くなってしまう。
練習も中断してるし、少し窓を開けて深呼吸でもしよう。
窓を開けると、晴れやかな青空に爽やかな五月の風が吹き抜ける。
深呼吸をすると、八乙女さんで埋まっていた脳と心に、少なからず余白が出来た気がする。
ドアか開く音がした。
誰? まだ5分は残ってるはずだけど……
「来るのが、早すぎたかしら」
今日は終わっても良いかと思い、譜面をしまおうとすると、後ろからクスクスと忍び笑いが漏れ聞こえてきた。
「久しぶりね。マコちゃん」
聞き覚えのある声。心より体が先に反応し、背中が泡立つのを感じながら振り向いた。
「一条先輩……」
「予約ノートに見覚えのある名前があったから、その次に予約してみたの」
八乙女さんが書いてくれた、猫のイラストやメッセージを観られたくなくて楽譜をすぐに閉じた。
そのままバッグに入れて、急いで音楽室を出ようと立ち上がる。
「失礼します」
「そんなに、慌てなくても良いじゃない」
人を小馬鹿にするような冷笑、心の奥底まで射抜いて来るような、ヘビみたいな瞳。
誰にでも優しく接する先輩。周りはそう思っているけれど、私としては人を値踏みするような視線が苦手だ……
「いえ、練習の邪魔になるでしょうし」
「私は、ここで練習しなくても大丈夫よ」
練習しないなら、他の人の練習枠にした方が良かったのに。ただでさえ、ピアノの練習は場所や時間を選ぶのだから。
「練習なんて自宅でも、先生の家でも、音楽教室でも、いつでもどこでも出来るし」
こちらの意図を読んでの回答なのか、相変わらず意地悪な人だ。
一条先輩は、片方の手で椅子を指し示しながら、もう片方の手は、自分のお腹に軽く添えた。
仰々しい『椅子にお掛け下さい』のジェスチャーも、私の受け取り方は『早く座りなさい』だった。
「久しぶりにお話し。しましょう」
隣の机の椅子に座る一条先輩。しばらくは逃げる事は出来なさそうだと思い、バッグを机に置いた。
「同じ学校に来たのは知ってたわ。マコちゃん有名だもの」
「良い意味ではなさそうですね」
「いえ、とても良い意味よ。『高身長でイケメンの一年生がいる』って」
「女の子に取っては、良い意味じゃなさそうですが」
「あら、ごめんなさい」
また、クスクスと含み笑いをする。一条先輩の場合、シニカルではあるけれど、本当に悪気があって……他人を傷付けたくて言っているのか。が、分からない。
無神経なのはどちらにしても同じだけれど。
「今日は一緒じゃないのね? 」
「一緒? 」
「ええ。可愛いけど、ワガママなお姫様っぽい子」
八乙女さんのこと? 一緒にいるようになったのも、ほんの最近なんだけど
「ワガママな、お姫様っぽい子なんて知りません」
「そうなの? あの子凄く可愛いし、この学校にはいないタイプだから、二人が揃ってると目立つわよ」
この人の口から『八乙女』さんの話は聞きたくない
「これが、話なら帰りますけど」
本題に早く入ってほしい。言われることの予想は、ついてるのだから
「なんで、またピアノやってるの? 」
「合唱コンクールがあるからです」
「クラスにピアノ弾ける人なんて、何人かいるでしょ」
これが、本題。一条先輩が答えさせたいセリフは予想は出来る。アタシはピアノが嫌いになって辞めたんだ。
ピアノが好きで、ピアノを最優先にしてる一条先輩とは合うはずがない。
「成り行きです」
「マコちゃんの伴奏だと、合唱する方もつまらないでしょうね」
来た。ここから私への精神攻撃が始まってくるはず。
「マコちゃんの演奏って、上手だけど、つまらないわよね」
「面白く、弾こうとはしてませんから」
「機械が弾いても、マコちゃんの演奏と変わらなそう」
否定できなかった。昔から言われ続けた言葉だから。
私には表現したいことも、聞かせたい相手もいない。だから、先生からもみんなからも『上手だけど響かない』言われたんだ。
ピアノを弾くのが、だんだんと苦しくなり、勉学を理由に中二で辞めさせてもらった。
「楽譜通りに正確になぞるだけなら、誰が弾いても変わらないわ」
苦しいのは……心が痛むのは、本音を言われてるからだ。耳をふさぎたい、今すぐ出て行きたい。
「目的も目標もなく弾いてたら、そうなっちゃうし」
そんなの分かってる。自分が一番分かってるに決まってる。聞きたくない、一人になりたい。
「学校内の合唱コンクールだし。そんなもので、丁度良いのかしらね」
『それなら、得意でしょ』と、悪びれもなく言ってくる一条先輩……指摘されたくないから、奥底に隠してる想いを、これでもか。と、的確に突いてくる。
伴奏者なんて引き受けるんじゃなかった。私には無理だよ。




