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建国記異聞  作者: 奪胎院
第六部

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第二章:見えざる戦争


第一幕:アレクサンドリアの衝撃


西方の世界がオクタウィアヌスの下でようやく再建への一歩を踏み出そうとしていた頃、東方から届いた報せはローマの中心に巨大な爆弾が投下されたかのような衝撃をもたらした。


私、ガイウス・マエケナスの執務室に東方から命からがら戻った密偵が、震える手で一枚のパピルスを差し出した。


そこに記されていたのは、マルクス・アントニウスがエジプトのアレクサンドリアで行ったという狂気の儀式の全貌だった。


「アレクサンドリアの寄進」。


その報告書を読み上げた時、同席していたアグリッパは絶句し、オクタウィアヌスはただ無言でその瞳に絶対零度の光を宿した。


アントニウスはパルティア遠征の失敗を糊塗するかのように、ローマの将軍ではなくまるでエジプトのファラオ気取りで凱旋式を執り行ったという。


そしてクレオパトラと共に黄金の玉座に座り、ローマの東方属州をまるで自分の私有財産であるかのように彼女とその子供たちに気前よく分け与えた。


だが本当に我々の度肝を抜いたのはその次の一節だった。


彼はクレオパトラと神君カエサルの間に生まれたとされる少年、カエサリオンを民衆の前に立たせ、こう宣言したというのだ。


「彼こそが、神君カエサルの唯一の、正統なる息子であり、王たちの中の王である!」と。


部屋は凍てつくような沈黙に支配された。


だが私の頭脳は、この未曾有の国辱的な行為の裏で驚くべき速度で回転を始めていた。


他の者たちがこの裏切り行為そのものに怒り震えている間、私はこの出来事が我々にもたらすとてつもない好機を正確に計算していた。


これはアントニウスの政治的な自滅だ。


彼は自らローマの敵となり、エジプトの女王の操り人形であることを全世界に宣言してくれたのだ。


そして何より、彼は我らが主君オクタウィアヌスに、彼を討つための完璧な大義名分を両手で恭しく捧げてくれた。


「…贈り物、ですな」


沈黙を破った私の呟きに、アグリッパが怪訝な顔を向けた。


「贈り物だと?マエケナス、貴様、正気か!」


「ええ、最高の贈り物ですよ、アグリッパ」

私は静かに答えた。


「アントニウス殿は我々がこれから始める『静かなる戦争』のための最も強力な武器を自ら提供してくださった。我々の仕事は、この贈り物を最大限に利用して彼をローマの裏切り者として完全に孤立させ、市民の怒りの炎でその身を焼き尽くす準備をすることです」


私の「静かなる戦争」の最後の幕が、今上がったのだ。


第二幕:貞淑な妻、魔性の女王

私たちが最初の矢を放つ前に、アントニウス自身が次なる矢を自らの胸に突き立ててくれた。


彼の妻でありオクタウィアヌスの姉であるオクタウィアは、貞淑で思慮深く、そして夫を心から愛するローマ婦人の鑑のような女性だった。


彼女はパルティアで敗れた夫を助けるため、自ら兵士と多額の資金を調達してはるばる東方のアテナイまで向かったのだ。


だがアントニウスはどうしたか。


彼はアテナイにいる妻の元へ向かうことなく、彼女に「ローマへ帰れ」という冷酷な一文を書き送っただけで、自らはクレオパトラの待つエジプトへと戻ってしまった。


この報せがローマに届いた時、私は勝利を確信した。完璧な物語が完成したのだ。


私は息のかかった全ての弁論家、詩人、そして街角のゴシップ屋たちに、一つの物語を徹底的に流布させた。


「聞きましたか諸君!我らが主君の姉上、貞淑なるオクタウィア様が夫アントニウス殿のために命の危険を顧みず東方の地まで赴かれたというのに、あの男はエジプトの魔女の色香に惑い、貞淑なローマの妻を無下に追い返したそうですぞ!」


この物語は燎原の火のようにローマ中に広まっていった。


市民たちは貞淑な妻の献身的な愛と、それを無碍にした夫の裏切りという分かりやすい構図にたちまち心を掴まれた。


オクタウィアへの同情とアントニウスへの侮蔑と怒り、そしてその背後で全てを操るエジプトの女王クレオパトラへの底知れぬ憎悪。


ローマ市民の心は完全に一つになった。


アントニウスはもはや英雄ではない。エジプトの魔女に魂を売り渡し、ローマを裏切った国家の敵だと。


私の敷いた盤上の上で、市民という駒は寸分の狂いもなく私の計算通りに動いてくれていた。


第三幕:オッピウスの最後の仕事

プロパガンダ戦争の総仕上げが必要だった。


市民の感情は完全にこちらに傾いたが、最後の決戦に臨むにあたり、我々には感情論ではない理論的な、そして絶対的な「正当性」が必要だった。


「カエサリオンこそが、カエサルの正統なる息子である」


アントニウスが放ったこの最も毒のある主張の根を、完全に断ち切らねばならない。


そのためには神君カエサル本人を最もよく知る人物の、権威ある言葉が不可欠だった。


私はローマ郊外の静かな邸宅へと向かった。


ガイウス・オッピウス。


かつてカエサルの「静かなる戦争」をローマで実行した影の実務家であり、今は全ての公職を退いて穏やかな引退生活を送っている賢人の元へ。


書斎で私を迎えたオッピウスは、私の来訪の意図を一瞬で見抜いていた。


私がカエサリオンの名を口にすると、彼は静かに、そして侮蔑するように鼻で笑った。


「…あの小僧のことか。クレオパトラがカエサル閣下を繋ぎ止めるためだけに産んだ、ただの政治の道具だ。閣下が一度たりともあの小僧をご自身の子として認知されなかったことが何よりの証拠であろう」


「存じております。ですがその事実をあなたの言葉でローマ市民に示していただきたいのです。オッピウス様、これはカエサル閣下の本当の後継者を決める最後の戦いです。どうかお力をお貸しください」


私の心からの願いに、オッピウスはしばし目を閉じて沈黙していた。


やがて彼はゆっくりと目を開くと、静かに頷いた。


「…よかろう、マエケナス殿。これもカエサル閣下への、そしてそのご遺志を継ぐ若き獅子たちへの、私からの最後の奉公だ」


数週間後、オッピウスがその生涯の全ての知識と経験を注ぎ込んで書き上げた一冊の短いパンフレットが、ローマの全ての広場で読み上げられた。


その題名は、「カエサリオンは、カエサルの実の子ではないことを、証明する」。


その内容は圧倒的だった。


カエサルの生前の言動、彼が友人たちに漏らした言葉、そして何よりも彼がオクタウィアヌスを後継者として指名したその遺言の法的な正当性。


あらゆる角度からカエサリオンの存在を論理的に、そして完膚なきまでに否定していた。


それはもはや単なるパンフレットではなかった。


ローマの世論を完全に決定づける最後の一撃となったのだ。


アントニウスは、その拠り所であるべき最後の正当性さえも失った。


私の「静かなる戦争」は終わった。


盤上の準備は全て整った。


あとはアグリッパ殿の「剣」が、最後の審判を下すのを待つだけだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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