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建国記異聞  作者: 奪胎院
第六部

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第一章: 新しいローマの礎

ナウロクスとシチリアでの勝利、そしてレピドゥスの失脚を経てローマに帰還した我々を待っていたのは、市民たちの熱狂的な歓声だった。


長きにわたる飢餓の恐怖から解放された彼らにとって、オクタウィアヌスはもはや単なるカエサルの後継者ではなく、ローマにパンと平和を取り戻した救世主そのものであった。


俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは凱旋式の壮麗な列の中で、友であり主君であるオクタウィアヌスの背中を見つめていた。


8年前、アポロニアでカエサル暗殺の報を聞いた時にはただ無力な若者に過ぎなかった我々が、今やこのローマ世界の西半分を完全に掌握したのだ。


その事実に言いようのない感慨が胸に込み上げてくる。


だがその夜、パラティヌスの丘にあるオクタウィアヌスの邸宅に集まった我々の間には、祝祭の浮かれた空気など微塵もなかった。


部屋にいたのは四人だけ。


オクタウィアヌス、俺、マエケナス、そして今やオクタウィアヌスの隣にいることが当たり前となった彼の妻リウィア。


窓の外ではまだ市民たちの祝宴の喧騒が遠く聞こえていたが、この部屋の中はまるで嵐の前の海のように静まり返っていた。


俺たち全員が、これから始まる本当の戦いの重さを肌で感じていたからだ。


蝋燭の炎が四人の顔を静かに照らし出していた。


最初に沈黙を破ったのはオクタウィアヌスだった。


その声は凱旋将軍の昂ぶりなど少しも感じさせない、いつものように平坦でしかし鋼のような響きを帯びていた。


「西方の平定は、内乱の時代の『終わり』ではない。だが、これは我々が新しいローマを築くための『始まり』だ」


彼はゆっくりと、しかし断固とした口調で言った。


「目の前には、最後の敵、アントニウスが残っている。この戦いを乗り越え、そして、その先に待つ本当の戦い…すなわち、疲弊したこの国を一から作り直すという戦いに勝つために、我々は、もはやただの友人の集まりであってはならない。今、この場で、我々四人が新しい国家の礎となるための、それぞれの役割を明確にする」


彼の視線がまず俺をまっすぐに射抜いた。


「アグリッパ。友よ。君にはこれまで通り、この国家の『剣』として軍を率いてもらう。東方にいる最後の敵を打ち破るその日まで。そしてそれだけではない」


彼は一度言葉を切った。


「戦いが終わった後、君にはローマのインフラを根底から再建する全ての公共事業を任せたい。水道を、街道を、そして神殿を。君が持つ比類なき土木の知識と実行力は、この国の物理的な強さを作る何よりの『槌』となるのだ」


剣と槌。


俺はその二つの言葉を胸の中で反芻した。


剣として友の敵を打ち破る。


それは俺がカエサル閣下の死以来、自らに課してきた当然の役目だ。


だが槌か。戦いで破壊するのではなく、民のために何かを創り出す。


そのあまりにも壮大で名誉ある役割に、俺の心は静かに、しかし激しく震えた。


俺はただ黙って力強く頷いた。


次にオクタウィアヌスの視線はマエケナスへと移った。


「マエケナス、君には外交と経済、そしてプロパガンダの全てを任せる。君の張り巡らせた情報網とその弁舌は、この国の隅々まで富と秩序を行き渡らせる『血流』となるだろう。そして時には市民の不満を逸らし、我々の敵の心を折る最強の『盾』となってもらう」


マエケナスはその唇にいつもの人を食ったような笑みを浮かべていた。


だがその瞳の奥には、彼の仕事が単なる裏工作ではなく、国家の生命線を維持するという極めて重要なものであることを完全に理解している冷徹な輝きがあった。


彼もまた静かに一礼した。


そして最後に、オクタウィアヌスは隣にいる自らの妻リウィアへと向き直った。


その眼差しはこれまでの俺たちに向けられたものとは違い、絶対的な信頼と深い愛情に満ちていた。


「そして、リウィア」


その声はひときわ穏やかだった。


「君には私の政策を支え、この新しい国家を効率的に動かすための官僚機構という『骨格』を一から築いてもらいたい。誰をどこに配置しどう動かすか。その人を見る君の確かな目が必要だ」


俺とマエケナスは息を飲んだ。


国家の人事と行政機構の構築。


それは本来、元老院や執政官が担うべき国家の中枢そのものだ。


それを彼は自らの妻に託そうとしている。


だがオクタウィアヌスの言葉はそれだけでは終わらなかった。


「そして何よりもリウィア。君自身がローマの全ての女性たちの模範となり、この国の『品位』そのものとなるのだ。カエサル閣下が愛し、そしてアントニウス殿を惑わせたクレオパトラという異国の魔力に対抗できるのは、君が体現するローマの貞淑さと強さと気高さだけだ。それが君にしかできない戦いだ」


リウィアはそのあまりにも重い言葉をただ静かに受け止めていた。


彼女は何も語らない。


だがその凛とした揺るぎない瞳が、彼女の覚悟のほどを何よりも雄弁に物語っていた。


彼女はただオクタウィアヌスの手を自らの手で強く握りしめた。


俺は目の前の光景を見ながら一つの確信を抱いていた。


今この瞬間に、ローマの新しい統治の形が生まれたのだと。


最高決定者であるオクタウィアヌス。


国家の武力と物理的な形を作る、剣と槌のアグリッパ。


国家の生命線と市民の心を司る、血流と盾のマエケナス。


そして国家の制度と精神的な支柱を担う、骨格と品位のリウィア。


この四本の柱がこれからの新しいローマを支えていくのだ。


それはもはやカエサル閣下のような一人の天才のカリスマに依存する危うい体制ではない。


それぞれの才能がそれぞれの役割を担い、有機的に結びついた強固な統治機構。


我々の内乱の時代は終わっていない。


だが、その終わりを見据え、そしてその先の未来を築くための礎が、今、確かに、ここに築かれたのだ。


俺は窓の外の喧騒がまるで遠い世界の出来事のように感じながら、自らに与えられた剣と槌の、その重く誇らしい響きを改めて噛み締めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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