第十一章:東方での惨敗
第一幕:砕かれた夢
紀元前36年。西方の若き獅子、オクタウィアヌスが、海賊王を打ち破り、レピドゥスを無血で失脚させ、ローマ世界の西半分を完全に掌握していた、まさに、その同じ頃。
東方の覇者、マルクス・アントニウスは、地獄の只中にいた。
彼の足元には、凍てついたアルメニアの雪原が、どこまでも、広がっていた。
彼の背後には、かつて十万を数えた、ローマ最強の軍団の、見る影もない残骸が、亡霊のように、続いていた。
パルティア遠征。
それは、かつて、主君カエサルが夢見た、偉業であった。
そして、アレクサンドロス大王の足跡を辿り、その武勲を超えるという、アントニウス自身の、生涯を懸けた、野望の集大成でもあった。
だが、その夢は、パルティアの砂漠と、アルメニアの雪によって、ズタズタに、引き裂かれた。
パルティアの弓騎兵は、まるで、砂漠の幻のように、現れては、消えた。
彼らは、決して、ローマ軍団が得意とする、正面からの会戦には、応じない。
ただ、遠巻きに、ローマ兵の分厚い盾を、いとも容易く貫通する、恐るべき強弓で、死の雨を降らせ続けるだけだった。
アントニウスは、歴戦の猛将として、その戦術の厄介さを、熟知していたはずだった。
だが、彼の内なる傲慢さが、そして焦りが判断を誤らせた。
彼は、補給部隊を後方に置いたまま、敵の首都を目指し、深入りしすぎたのだ。
そして、気づいた時には、全てが、手遅れだった。
補給路は完全に、断たれていた。
数万の兵士たちの命を繋ぐ、最後の生命線がパルティアの焦げ付く砂漠のどこかで消え失せていた。
冬が、来た。
退却を決意した彼らを、アルメニアの殺人的な冬将軍が待ち受けていた。
第二幕:雪中の地獄
退却行は、言葉を絶する苦行だった。
気温は氷点下を遥かに下回った。
兵士たちの吐く息は、瞬時に白く凍りついた。
食料は、数日前に完全に尽きた。
彼らは、飢えをしのぐため荷物を運ぶ獣を殺し、やがて自らの武具である革の盾を煮て食らった。
だが、飢えよりも恐ろしいものが、彼らを蝕んでいた。
寒さだ。
薄くなった軍衣では骨まで凍みる、アルメニアの冬の寒さを防ぐことはできなかった。
眠りに落ちた兵士は、二度と目を覚ますことはなかった。
朝になると陣営のあちこちで、雪を被ったまま硬直した無数の人の形をした氷像が出来上がっていた。
そして、その死の行軍を、パルティアの騎兵たちが、決して見逃すはずもなかった。
彼らはまるで弱った獲物の周りを飛び回る禿鷹のように、常にローマ軍の周囲を付きまとった。
そして、疲労で列からわずかに遅れた兵士を的確に射抜いていく。
兵士たちの心は、日に日に、死んでいった。
その瞳からは、ローマ兵としての誇りの光が消え失せ、ただ動物的な生存への渇望と、そして深い絶望の色だけが浮かんでいた。
第三幕:傷ついた獅子
マルクス・アントニウスは、その地獄の先頭をただ黙々と歩き続けていた。
フィリッピで、ブルトゥスとカッシウスを打ち破った英雄の面影は、もはやどこにもなかった。
その顔は、寒さと、飢えと、そして、何よりも屈辱によって、深く刻み込まれていた。
頬はこけ、無精髭は白く凍りついていた。
彼のプライドは粉々に砕け散っていた。
この俺がカエサルの下で誰よりも戦い、誰よりも勝利を重ねてきた、この俺が蛮族相手にこれほどの惨敗を喫するとは。
オクタウィアヌスは、今頃ローマで俺のこの無様な敗北を、ほくそ笑んでいることだろう。
あの病弱な書斎育ちの若造が、だ。
だが、それでも彼は指揮官であることをやめなかった。
彼は、兵士たちと同じものを食べた。
いやほとんど何も口にしなかった。
彼は自らに割り当てられたわずかな食料を、負傷した兵士に分け与えた。
彼は幕舎で眠ることを拒み、凍える兵士たちと共に雪の上で仮眠を取った。
兵士たちは、その姿を見ていた。
だから、彼らはこの絶望的な状況下でも、アントニウスを見捨てなかった。
彼が自分たちと同じ痛みを、苦しみを、分かち合ってくれていることを、知っていたからだ。
この地獄から生きて脱出させてくれるのは、この男しかいないと信じていたからだ。
厳しい現実が彼の意識を苛む。
だが、夜、吹雪が吹き荒れる仮初めの眠りの中で、彼の魂は常に一つの場所へと飛んでいた。
エジプト。
暖かく、豊かで、そして、官能的な、ナイルのほとりへ。
あのクレオパトラの待つ場所へ。
彼女の黒曜石のような瞳。
絹のような肌。
そしてこの世の全てを忘れさせてくれる甘い香り。
そうだ。
ローマも元老院も、そしてあの忌々しいオクタウィアヌスもどうでもいい。
俺には彼女がいる。
俺の全てを受け入れてくれる、俺だけの女王が。
彼の心は、このアルメニアの雪原で、完全にローマを離れた。
第四幕:敗軍の将
数週間後。
もはや骸骨の集団と化したローマ軍の残骸は、ついに、友邦国の領土へとたどり着いた。
十万を数えた大軍団は、その数を三分の一以下にまで減らしていた。
生き残った者たちも、その大半が手足に深刻な凍傷を負っていた。
そして、何よりも彼らは、ローマ軍団の魂である、鷲の旗を何本もパルティアの砂漠に置き去りにしてきていた。
それは、歴史上類を見ないローマの大惨敗だった。
クラッススの悲劇、再び。
いや、それ以上の、屈辱。
アントニウスの名声は地に堕ちた。
東方世界に轟いていた無敵の将軍という神話は、アルメニアの雪と共に完全に溶け去ったのだ。
その頃。
西方のローマでは、オクタウィアヌスが凱旋将軍として、市民たちの熱狂的な歓呼の声を一身に浴びていた。
東方での、歴史的な惨敗。
西方での、歴史的な大勝利。
二人の英雄の運命は紀元前36年のこの秋、あまりにも残酷なコントラストをもって完全に分かたれた。
そしてそのことは、次なる、そして、最後の避けられぬ破局への序曲でしかなかった。
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