第十章:レピドゥスの失脚
第一幕:祭りの終わり
ナウロクス沖での歴史的な大勝利は、ローマ世界を熱狂の渦に巻き込んだ。
シチリア島に上陸した我々の軍団は、民衆からまるで神々のような歓迎を受けた。
長きにわたる飢餓の恐怖から解放された彼らは、オクタウィアヌスの名を、そして俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの名を救世主として繰り返し叫んだ。
だが、その熱狂の片隅で次なる内乱の火種が静かに燻り始めていた。
マルクス・アエミリウス・レピドゥス。
三頭政治の一角を担うあの男は、アフリカから自らの手兵である二十個軍団もの大軍を率いて、このシチリア島に上陸していた。
その目的はセクストゥスの残党狩りと、そしてこの勝利の果実を自らのものとすることだった。
俺はオクタウィアヌスの幕舎で、彼と二人きりで地図を睨んでいた。
「レピドゥス殿は何を考えている」
俺の呟きに、オクタウィアヌスは冷ややかに答えた。
「考えていることなど一つしかない。彼はこのシチリアの支配権を我々から奪い取るつもりだ。そしていずれはローマそのものを。彼は我々がセクストゥスと命懸けの死闘を演じている間、アフリカでただ静観していただけだった。そして我々が勝利したまさにその瞬間に、漁夫の利を得ようとこの島にやって来たのだ」
その言葉通りだった。
レピドゥスの軍団はセクストゥスの残党を降伏させると、その兵士たちを自らの軍団へと組み込んでいった。
彼の兵力は今や我々の軍を遥かに凌駕していた。
彼はその圧倒的な兵力を背景に、オクタウィアヌスに対しシチリアの統治権の完全な譲渡を要求してきたのだ。
三頭政治という血で結ばれたはずの同盟は、勝利の美酒を前にしてあまりにもあっけなく崩壊しようとしていた。
第二幕:英雄の賭け
レピドゥスの陣営から、最後通牒とも言える使者が我々の元へやって来た。
「我が主レピドゥス様はオクタウィアヌス殿に要求する。速やかにシチリアの全てから手を引き、ローマへと撤退されたし。しからずんば我々は貴殿をローマの敵と見なし、その武力をもってこれを排除する」
あまりに傲慢な要求だった。
俺は怒りに拳を握りしめた。
「ふざけるな!奴は我々が流した血の上に胡座をかこうというのか!オクタウィアヌス、命令を。今すぐ俺の軍団が奴らの鼻をへし折ってやる!」
だが、オクタウィアヌスは静かに俺を制した。
「アグリッパ。力で戦えば我々に勝ち目はない。兵の数は向こうが倍以上だ。それに、彼らも我々も同じローマの兵士だ。これ以上の内乱は避けなければならない」
「ではどうするのだ!このまま奴の要求を呑むというのか!」
俺の苛立ちを滲ませた声に、オクタウィアヌスは静かに首を振った。
そして彼はにわかには信じがたい、とんでもないことを口にした。
「いや。俺が一人で行く」
「は…?一人でだと?」
「そうだ。俺が一人でレピドゥスの陣営へ行く。そして彼の兵士たちの前で直接語りかける。アグリッパ、これは賭けだ。武器ではなく、言葉と、そして俺がこの二年でローマ市民のために何を成し遂げてきたか、その『事実』だけを武器にした最後の賭けだ」
それはあまりにも無謀な賭けだった。
敵の大軍の只中へ、最高司令官がたった一人で乗り込んでいく。それは自殺行為に等しい。
俺は必死に彼を止めようとした。
だが彼の瞳の奥に宿る鋼のような決意の色を見て、俺はもはや何も言えなくなった。
彼はすでに覚悟を決めている。
俺にできることはただ彼を信じ、そして万が一の事態に備えて自らの軍団をいつでも動かせるように準備しておくことだけだった。
第三幕:言葉という名の剣
翌朝、オクタウィアヌスは護衛もつけず、ただ一人レピドゥスの巨大な陣営へと向かった。
その知らせはレピドゥスの軍団に大きな動揺をもたらした。
「オクタウィアヌス様がたった一人でこちらへ来られるだと?」
「武器も持たずに?いったい何をお考えなのだ…」
そしてついに、オクタウィアヌスはレピドゥスの軍団の前にその姿を現した。
彼はただ静かに歩いてきた。
そのあまりにも堂々とした無防備な姿に、レピドゥスの兵士たちは皆、武器を取り落としそうになっていた。
彼は陣営の中央に立つと数万の兵士たちを見渡し、そして静かに語り始めた。
「兵士諸君!私はガイウス・ユリウス・カエサルの子、オクタウィアヌスだ!君たちに問いたい!君たちは一体、誰のためにその剣を握っているのだ!」
その声は決して大きくはなかったが、不思議なほどにその場にいる全ての兵士の耳に、そして心に届いた。
「君たちの剣はローマの民を飢えから救うためにあるのではないのか!君たちの剣はローマの平和を脅かす海賊を打ち破るためにあるのではないのか!我々はそれを成し遂げた!このアグリッパ将軍と共にこの二年、血反吐を吐く思いで戦い抜き、そしてついにセクストゥス・ポンペイウスを打ち破ったのだ!」
彼の指が遠くに控える俺たちの陣営を指し示した。
「だというのに!君たちの司令官、レピドゥス殿は何をしている!彼は我々が流した血の匂いを嗅ぎつけ、その手柄を横取りするためにアフリカからやって来ただけではないか!彼は君たちを自らの私的な野心のために利用しようとしているのだ!君たちはそれでいいのか!同じローマ市民である我々にその剣を向けることができるのか!」
その魂からの叫びだった。
その言葉はレピドゥスの兵士たちの心を大きく揺さぶった。
そうだ、俺たちはローマの兵士だ。
ローマの民のために戦うのが俺たちの誇りだ。
なのに俺たちは今、そのローマの民を飢えから救った英雄に剣を向けようとしている…。
第四幕:英雄の前に
兵士たちの間に動揺が広がっていく。
その時だった。レピドゥスが自らの幕舎から血相を変えて飛び出してきたのは。
「何を聴いている!こ奴の甘言に乗るな!者ども、かかれ!その若造を捕らえよ!」
レピドゥスがヒステリックに叫ぶ。
だが彼の兵士たちは誰一人として動こうとしなかった。
それどころか最前列にいた一人の百人隊長が、その手に持っていた軍団の象徴である鷲の旗を地面に突き立てた。
そして彼はオクタウィアヌスの前に進み出ると、その場に跪いたのだ。
「我々はあなたに従います、オクタウィアヌス様。あなたこそがカエサル閣下の正統なる後継者だ」
その一人の行動が引き金となった。
一人、また一人と兵士たちがその武器を地面に置き、まるで雪崩を打つかのように次々とオクタウィアヌスの前にひざまずいていったのだ。
彼らが選んだのは三頭政治の一角という過去の権威ではない。
今まさに自分たちを、ローマを救ってくれた目の前にいる生きた英雄だった。
レピドゥスはその光景をただ呆然と見つめることしかできなかった。
彼の二十個軍団は一瞬にしてその全てがオクタウィアヌスのものとなったのだ。
彼は全ての権力を失った。
戦うことなく、ただ一人の若者の言葉の前に完全に敗北したのだ。
この日をもって三頭政治は事実上崩壊した。
ローマ世界は名実ともに西のオクタウィアヌスと、そして東のアントニウスによって二分されることになった。
それは次なる、そしておそらくは最後の、より巨大な内乱の静かな始まりだった。
俺は遠くの丘の上からその歴史的な光景を見届けながら、静かに兜の緒を締め直していた。
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