第七章:海賊王セクストゥス
第一幕:運命の歯車
ミセヌムでの偽りの平和は、砂上の楼閣よりも脆く、儚いものだった。
セクストゥス・ポンペイウスとの和約は、彼の野心の前には、何の拘束力も持たなかった。
再び、ローマの生命線である穀物船の航路は閉ざされ、街は、ゆっくりと、しかし確実に、飢餓という名の怪物に飲み込まれていった。
だが、この政治的な混乱の裏側で、ローマの運命を、そして我らが主君の魂を、根底から揺るがす、もう一つの歯車が、静かに、しかし、狂ったように回り始めていた。
オクタウィアヌスは、恋に落ちていた。
ミセヌムの祝宴で出会った、リウィア・ドルシッラ。その聡明な瞳と、凛としたたたずまいが、彼の心を、完全に捕らえて離さなかった。
彼は、政略のためにスクリボニアと結婚した自らの立場も、リウィアが敵対する家系の、しかも夫を持つ人妻であるという事実も、全てを、忘れ去っていた。
そして、紀元前38年の初頭。彼は、信じられない行動に出た。
妻であるスクリボニアが、彼との間の娘、ユリアを出産した、まさにその日。
彼は、産褥の床にある妻に、離縁状を突きつけたのだ。
その非情さは、俺やマエケナスでさえ、言葉を失うほどだった。
カエサルの後継者として、常に冷静な計算の下に行動してきた男が、一人の女性のために、ローマ中を敵に回しかねない、狂気の沙汰を演じたのだ。
彼は、それだけでは終わらなかった。
リウィアの夫である、ティベリウス・クラウディウス・ネロに、強大な圧力をかけ、妊娠中の彼女を、無理やり離縁させた。
そして、そのわずか三日後。彼は、ローマ中の非難と嘲笑を、その一身に浴びながら、リウィアと、盛大な結婚式を挙げたのである。
「…狂っている」
その報を聞いた時、俺は、ただ、そう呟くことしかできなかった。
マエケナスも、さすがに、いつもの軽口を叩く余裕もなく、ただ、深いため息をついていた。
我々の友は、ローマの未来を、自らの恋情と引き換えに、売り渡そうとしているようにさえ、見えた。
だが、リウィアと並び立つ彼の姿を見た時、俺は、その考えを、改めざるを得なかった。
彼の瞳には、これまでの人生で、一度も見たことのない、穏やかで、そして、絶対的な確信に満ちた光が宿っていた。
それは、彼が、自らの魂の、半身を見つけた、男の顔だった。
しかし、この個人的な幸福が、ローマの飢えを満たすことはない。
市民たちの苦しみの声は、やがて、怒号へと変わった。
その矛先は、もはや、遠い海の上にいる海賊王ではなく、ローマを統治し、スキャンダルにまみれた我らが主君、オクタウィアヌスへと、真っ直ぐに向けられていた。
第二幕:決戦への道
紀元前38年夏。
市民の暴動が、ついに、オクタウィアヌス本人に向けられるという事件が起きた。
フォルムで、飢えた市民たちに取り囲まれた彼は、危うく、命を落しかけたのだ。
この屈辱的な事件は、彼に、最後の決断をさせた。
「…アグリッパ。もはや、猶予はない」
パラティヌスの丘にある屋敷で、オクタウィアヌスは、青白い顔に、鋼のような決意を浮かべて、俺に告げた。
その隣には、リウィアが、ただ、静かに、寄り添っていた。
「セクストゥスを、叩く。海の上で、奴の息の根を、完全に止めるのだ」
その命令一下、我々はローマが持ちうる全ての海軍力を、ナポリ近郊のミセヌム軍港へと集結させた。
アントニウスとの和約に基づき、東方から派遣された艦隊もそこには含まれていた。
数百隻からなる大艦隊。
その威容は、まさしく、ローマの力の象徴そのものだった。
俺も、その一隻に乗り込み、作戦会議に参加した。
だが、会議が進むにつれて、俺の胸には、言いようのない不安が広がっていった。
提督たちの語る言葉は、全て、陸戦の常識を、そのまま海に持ち込んだものばかりだったからだ。
「敵の主力艦隊を、中央で食い止め、その両翼を、我が方の別働隊が包囲殲滅する」
それは、陸の上であれば、常套手段と言える戦術だろう。
だが、風が吹き潮が流れる海の上で、果たしてそんな都合の良い陣形を維持することなどできるのだろうか。
そして何より俺たちの船に乗っているのは、陸の上では無敵を誇る、ローマの軍団兵たちだった。
彼らは、屈強で、勇敢で、そして、規律正しい。
だが、その大半は、揺れる甲板の上では、まともに立つことさえできぬ、ただの素人だった。
第三幕:メッシーナの惨劇
決戦の日は、来た。
我々の大艦隊がシチリア島を目指しメッシーナ海峡へと侵入した、まさにその時だった。
セクストゥスの、カモメのように素早い小型の艦隊が、突如として我々の眼前にその姿を現したのは。
「敵襲! 敵艦隊、前方より接近!」
見張りの兵士が、叫ぶ。
我々の提督は陸戦の定石通り、艦隊に分厚い陣形を組むよう命令した。
だが、その命令が全軍に行き渡る前に、セクストゥスの艦隊はすでに我々の懐深くに食い込んでいた。
彼らの船は、小さく、そして、速かった。
まるで、巨大なクジラの群れにじゃれつく、イルカの群れのように。
彼らは我々の巨大な軍船の櫂を巧みに折り、舵を破壊し、そして、決して得意の移乗攻撃の間合いには入ってこない。
こちらの投石機が狙いを定める前に、すでに、次の場所へと、移動している。
我々の統率された動きは、完全に裏目に出ていた。
狭い海峡の中で巨大な船体が、互いに邪魔をし合い身動きが取れなくなっていく。
軍団兵たちは敵船に乗り込もうにもその機会さえ与えられず、ただ揺れる甲板の上で嘔吐し、無様に右往左往するだけだった。
そして、悪夢は、それだけでは終わらなかった。
天候が急変したのだ。
突如として、猛烈な嵐が、海峡に吹き荒れた。
その瞬間セクストゥスの艦隊は、まるで水を得た魚のように、生き生きと動き始めた。
彼らは、この海を知り尽くしているのだ。
風と、波と、潮の流れの、全てを。彼らは、巧みに、嵐を避け、安全な入り江へと、退避していく。
だが、我々の艦隊は、違った。
操船技術も未熟なまま、巨大な船体はなすすべもなく荒れ狂う波と風に翻弄された。
船は互いに衝突し、マストは折れ、そして、次々と岩礁へと叩きつけられ砕け散っていく。
俺の乗っていた船もまた、例外ではなかった。
巨大な波に煽られ、船体は、大きく傾いた。
甲板にいた兵士たちが、まるで、人形のように次々と暗い海の中へと投げ出されていく。
その悲鳴は、猛り狂う、風の音に、かき消された。
俺は折れたマストの残骸に、必死にしがみつきながら、この世の地獄のような光景を、ただ、呆然と、見つめることしかできなかった。
第四幕:敗北の意味
嵐が過ぎ去った時、そこに、ローマ艦隊の威容は、もはや、存在しなかった。
ミセヌムを出港した時の半分以上の船が海の藻屑と消えていた。
命からがら、岸へとたどり着いた兵士たちの顔には、陸の上では決して見せることのない、深い絶望の色が、浮かんでいた。
これは、紛れもない、惨敗だった。
しかも、敵と戦う前に、我々は、「海」そのものに、敗れたのだ。
俺は、濡れた砂浜に、膝から、崩れ落ちた。
ペルシアでの勝利が、俺に万能感にも似た驕りを与えていたことを思い知らされた。
陸の上でどれほどの勝利を重ねようとも、この海という全く異なる理で動く世界の前では、それは、何の意味も持たないのだと。
海戦は、陸戦とは、全く違う。
それは兵士の勇気や陣形の美しさで決まるものではない。
船という道具を、そして、海という自然を、どれだけ深く理解しているか。
全てはそれで決まるのだ。
俺は拳を強く握りしめた。
この敗北は、我々に多くのものを教えてくれた。
セクストゥス・ポンペイウスという男は、ただの海賊ではない。
彼は、我々が、まだ、何も知らない、「海」という戦場を、完全に支配する、真の王なのだ。
そしてその王を倒すためには、我々もまた海を知り、海を支配する者へと生まれ変わらなければならない。
このメッシーナの惨劇が、俺の、そして、ローマの新しい戦いの本当の始まりだった。
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