第六章:偽りの平和
第一幕:血の同盟
ブルンディシウムの和約が成立し東方と一時の平穏が訪れたが、セクストゥス・ポンペイウスによる海上封鎖は、ローマの喉元に突きつけられた、冷たい刃だった。
ローマは依然として飢え、市民の不満は、もはや、怒号と暴力となって、オクタウィアヌス本人に直接叩きつけられていた。
打つ手は、完全になかった。陸の戦いでは無敵を誇る俺の軍団も、海を支配する「王」の前では、無力だった。
パラティヌスの丘にある、重苦しい空気が支配する一室に、俺たち三人は、再び集まっていた。
友であり主君であるオクタウィアヌスは、この連日の心労で、まるで幽鬼のように痩せこけていた。
俺は、この膠着した状況を打破できない自らの無力さに、腸が煮え繰り返るような思いだった。
沈黙を破ったのは、いつものように、マエケナスだった。
「…打つ手がないのではありません。我々は、発想を、根本から変えるのです」
その声は、この絶望的な状況には、あまりに不釣り合いなほど、落ち着き払っていた。
「セクストゥスと戦うのではない。彼と、縁戚になるのです」
その言葉の意味を、俺とオクタウィアヌスは、すぐには理解できなかった。縁戚に? あの、父の仇であるポンペイウスの息子と?
「セクストゥス本人は、独身ではありません。ですが、彼の一族には、利用できる駒がいます。彼の義理の父の妹、スクリボニア。彼女は最近、夫を亡くしたばかり。…オクタウィアヌス様、あなたが、彼女と結婚するのです」
それは、起死回生の一手であると同時に、あまりにも、屈辱的な一手だった。
カエサルの後継者であるオクタウィアヌスが、海賊の頭目の縁者に、頭を下げて、結婚を申し込む。それは、事実上の、降伏宣言に等しい。
だが、俺たちには、もう、それ以外の選択肢は残されていなかった。
俺は、友がこの望まぬ結婚を強いられることに、居た堪れない気持ちになった。
だが、この重苦しい空気を、少しでも変えなければならなかった。
俺は、あえて、いつものように、軽口を叩いてみせた。
「おいおい、ついに、お前も年貢の納め時か。俺も、お前の勧めで結婚したが、まあ、悪くなかったぞ。お前も、覚悟を決めろ」
すると、マエケナスも、その意図を察して、悪戯っぽく、続けた。
「そうですな。いっそ、父上を見習って、結婚後も、色々とお手を出すのも、良いのでは? 英雄の色好みは、いつの世も、民衆受けが良いものです」
その、不謹慎極まりない二人の言葉に、オクタウィアヌスは、ただ、力なく、苦笑するしかなかった。
第二幕:ミセヌムの和約
オクタウィアヌスとスクリボニアの結婚は、驚くほど、スムーズに、そして、速やかに執り行われた。
セクストゥスもまた、この内乱の長期化に、疲弊していたのだ。
カエサルの後継者との縁戚関係は、彼に、海賊の頭目という立場以上の、「正当性」を与えることになる。
この血の同盟を足がかりとして、ナポリ湾に浮かぶ、ミセヌムの岬で、和平交渉が行われた。
その交渉の席で、マエケナスの外交手腕は、遺憾なく発揮された。
彼は、セクストゥスを「偉大なるポンペイウス・マグヌスの御子息」と最大限に持ち上げ、その自尊心を巧みにくすぐりながら、一方で、ローマが受け入れられる、ギリギリの条件を引き出していった。
シチリア、サルデーニャ、コルシカの支配権を、セクストゥスに正式に認める。
そして、ローマへの、穀物供給の再開。
「ミセヌムの和約」が成立したという報に、ローマの街は、束の間の平和に、沸き立った。
市民たちは、これで、ようやく、腹一杯のパンが食えると、歓喜の声を上げた。
だが、交渉の全権を担ったマエケナスだけは、その熱狂の中心で、冷めていた。
彼は、この和約が、友の望まぬ結婚と、国家の屈辱の上に成り立った、ただの、時間稼ぎに過ぎないことを、完璧に見抜いていた。
セクストゥスという、野心的な海賊王が、地中海の島々だけで満足するはずがない。
この偽りの平和は、より大きな戦争のための、嵐の前の静けさでしかないのだと。
第三幕:運命の女性
その、和約が成立した直後の、祝宴の席でのことだった。
オクタウィアヌスが、一人の女性と、運命的な出会いを果たしたのは。
リウィア・ドルシッラ。
共和派の名門、クラウディウス家の出身。
彼女は、プロスクリプティオによって、父と、そして最初の夫を、我々の手で殺されていた。
そして、今は、別の男の妻となっていた。
その、全ての悲劇を乗り越えてきた、凛とした美しさと、聡明な瞳に、オクタウィアヌスは、一瞬で、心を奪われたのだ。
後日。彼は、俺とマエケナスの前で、まるで、夢見る少年のように、こう、宣言した。
「…運命の女性を、見つけた。何としても、彼女と、結婚する」
その言葉に、俺は、我が耳を疑った。
何を言っているんだ、こいつは。
相手は政敵のしかも夫がいる人妻だ。
おまけに、腹には、その夫の子までいるというではないか。自らは、政略のために、望まぬ結婚をしたばかりだというのに。
その、あまりに情熱的で、そして、政治的に、無謀すぎる宣言に、俺は、呆れ果てて、言葉も出なかった。
しかし、隣にいたマエケナスは、違った。
彼は、その唇に、いつもの、人を食ったような笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
「ほう。父上を見習えとは言ったが、まさか、こんなに早く、次を見つけるとは。…女性を見つける速さだけは、父上を、超えたな」
その軽口に、オクタウィアヌスも、今度ばかりは、本気で、マエケナスを睨みつけた。
だが、俺たち二人には、わかっていた。
彼の瞳の奥に宿る、その光が、これまで、一度も見たことのないほど、強く、そして、純粋な意志の光であることを。
彼は、本気なのだ。ローマの覇権を争う時と、同じくらい、いや、それ以上に。
俺たちは、顔を見合わせ、同時に、深いため息をついた。
「…もう、勝手にしてくれ」
第四幕:賢人たちの雑談
その頃。
ローマ郊外にある、レビルスの静かな邸宅では、三人の賢人たちが、穏やかな午後を過ごしていた。
カエサルの「最高の頭脳」であった、レビルス。
そして、その「静かなる戦争」を支えた、オッピウスと、バルブス。
彼らは、全ての公職を退き、今は、若き後継者たちの戦いを、遠くから、静かに見守っていた。
オッピウスが、呆れたように、しかし、どこか、面白そうに、口を開いた。
「アントニウス殿は、エジプトの女王に夢中かと思えば、今度は、我らが若君が、敵の人妻に夢中だそうだ。我らが仕えた、あのお方には、まだ及ばないが、女選びの趣味だけは、なかなかに、面白いことになっているな」
その言葉に、バルブスが、より、実務的な視点で、評価を加える。
「だが、若君たちの、ここまでの動きは、評価すべきだ。特にマエケナス殿は、我々のやり方を、よく学んでいる。市民の不満を巧みに逸らし、レピドゥス殿の評判を地に落とす、あの手腕は、見事なものだ」
そして最後に、レビルスが、グラスの中の葡萄酒を、ゆっくりと揺らしながら、静かに、しかし、満足げに、締めくくった。
「アグリッパ殿も、ペルシアの戦い前に、私の元へ教えを乞いに来た。あの謙虚さがある限り、彼は、必ず、最強の軍人になるだろう。…今のところ、我々の目に、狂いはなかったようだ」
三人は、若き後継者たちの、危なっかしくも、確かな成長と、そして、自分たちが手に入れた、この穏やかな引退生活に、静かに、杯を掲げた。
ローマの未来は、まだ、始まったばかりだった。
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