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建国記異聞  作者: 奪胎院
第五部

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第五章:ブルンディシウムの和約

第一幕:最も重い駒

ペルシアの戦勝報告がローマに届いてから、幾ばくも経たないうちだった。


東方より、マルクス・アントニウス本人が、大艦隊を率いてイタリアに上陸したという、衝撃的な報が駆け巡ったのは。


彼は、アドリア海の玄関口、ブルンディシウムの港を封鎖し、我らが主君、オクタウィアヌスに、公然と戦いを挑んできたのだ。


我々は、直ちに軍団を率いて、ブルンディシウムへと急行した。


アグリッパが指揮する歴戦の兵たちは、ペルシアでの勝利の勢いもあって、士気は天を衝くほどに高い。


両軍は、ブルンディシウムの城壁を挟んで、対峙した。ローマの覇権を争う二人の巨頭が、今、まさに激突しようとしていた。


だが、信じられないことが起きた。


開戦の合図がなされても、どちらの兵士たちも、動こうとしなかったのだ。


彼らは、同じカエサルの下で戦った、かつての戦友だった。


ペルシアでの、ローマ人同士の戦いは、もう、こりごりなのだ。


彼らは、その固い沈黙によって、指導者たちに、これ以上の内乱を拒否するという、明確な意思表示をしたのである。


この異常事態を受け、両陣営は、協議の席に着かざるを得なくなった。


そして、その交渉役という大任が、この私、ガイウス・マエケナスに、託されることになった。


交渉へ向かう、その直前の夜。私は、オクタウィアヌスの幕舎に、二人きりでいた。


彼は、この数ヶ月の心労で、ますます痩せ、その顔色は、まるで蝋のようだった。


だが、その瞳の奥で燃える光だけは、かつてないほどに、強く、そして、冷たく輝いていた。


「マエケナス」


彼は、静かに、私の名を呼んだ。


「お前は、この交渉、どうすればまとまると思う?」


「…アントニウス殿の狙いは、我々の弱体化、そして、東方における、彼自身の絶対的な権威の確立です。ペルシアでの敗北は、彼の面子を、大きく傷つけました。何らかの形で、彼に『勝利』を与えなければ、納得はしますまい」


私の分析に、オクタウィアヌスは、静かに頷いた。


そして、彼は、まるで、盤上の駒を一つ、動かすかのように、こう、言ったのだ。


「…ならば、彼に、最も重い駒を、与えよう」


その声は、あまりにも平坦で、感情というものが、一切、感じられなかった。


「私の姉上、オクタウィアを、アントニウス殿に、嫁がせる」


その言葉を、私の脳が理解するのに、数瞬の時間を要した。


姉上…オクタウィアは、最近、夫を亡くしたばかりの、未亡人だ。


貞淑で、美しく、そして、何よりも、この弟のことを、心から案じている、心優しい女性。


その彼女を、あの、英雄ではあるが、粗野で、女癖の悪い、アントニウスに、嫁がせる…?


これは、もはや、政略結婚という言葉でさえ、生ぬるい。


これは、友の、そして主君の、肉親を、生贄として、和平の祭壇に捧げるという、非情の決断だった。


「…本気、ですか」


絞り出すような私の声に、オクタウィアヌスは、初めて、その表情を、わずかに歪めた。


それは、苦痛の表情のようにも、そして、自嘲の笑みのようにも、見えた。


「本気だ。父上が、そうであったように、私も、ローマの未来のためならば、全てを、駒として使う。たとえ、それが、自らの姉であろうとも。…マエケナス。お前は、この駒を、最も効果的に、使ってくれ。それが、お前の役目だ」


私は、もはや、何も言うことができなかった。


目の前にいるのは、もはや、私が知る、あの繊細な少年ではない。


カエサルの血と遺志を継ぎ、ローマという国家そのものを背負う覚悟を決めた、一人の、冷徹な支配者だった。


第二幕:脆い平和

私の交渉は、驚くほど、順調に進んだ。


オクタウィアヌスの姉、オクタウィアとの結婚という提案は、アントニウスにとって、まさに、望外の贈り物だったからだ。


第一に、カエサルの後継者の姉を娶るということは、彼が、オクタウィアヌスと同格、いや、それ以上の存在であることを、内外に、明確に示すことができる。


第二に、それは、ペルシアでの敗北という屈辱を、帳消しにして余りある、政治的な『勝利』を、意味した。


そして、第三に…アントニウスは、オクタウィアの、その貞淑な美しさを、以前から、よく知っていたのだ。


こうして、「ブルンディシウムの和約」は、成立した。


ローマ世界は、再び、三人の巨頭によって分割される。


オクタウィアヌスが西方を、アントニウスが東方を、そして、レピドゥスがアフリカを。


そして、その同盟の証として、アントニウスとオクタウィアの、盛大な結婚式が、ローマで執り行われることになった。


兵士たちは、歓喜の声を上げた。


忌まわしい内乱が、ついに、終わったのだと。ローマの市民も、元老院も、この「平和」の到来を、心から、祝福した。


だが、私は、その熱狂の中心で、一人、冷たい醒めた思いで、この光景を眺めていた。


この平和は、あまりにも、脆い。


それは、一人の、心優しい女性の、幸福を犠牲にして、ようやく成り立った、見せかけの平和だ。


彼女が、これから先、アントニウスの側で、どれほどの苦難を味わうことになるのか。それを思うと、私の胸は、張り裂けそうだった。


そして、何よりも、私には、わかっていた。


アントニウスのいる、その東方の空の向こうには、もう一人、彼の魂を、完全に虜にしている、絶対的な存在がいることを。


エジプトの女王、クレオパトラ。


アントニウスは、今は、ローマの平和の象徴として、オクタウィアを、その腕に抱くだろう。


だが、彼の心が、本当に、ナイルの女王の元を離れることなど、あり得るのだろうか。


いや、あり得ない。


このブルンディシウムの和約は、終わりではない。


それは、次なる、そして、おそらくは、最後の、破滅的な内乱の始まりを、ほんの少し、先延ばしにしたに過ぎないのだ。


私は、祝宴の喧騒の中で、一人、杯を干した。


その葡萄酒は、まるで、友の姉が、これから流すであろう、涙の味のように、ひどく、苦かった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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