第八章:賢者の工房
第一幕:敗軍の将
ローマに戻った俺を待っていたのは、英雄への凱旋ではなく、敗軍の将への冷たい侮蔑の視線だった。
メッシーナ沖での惨敗。
ローマ海軍の半数を、敵と刃を交える前に海そのものに奪われたあの悪夢。
その記憶は、俺の魂に、決して消えることのない、深い傷跡として刻み込まれていた。
俺は、自らの無力さに、打ちひしがれていた。
ペルシアでの勝利が与えてくれた自信は、もはや、跡形もなく砕け散っていた。
陸の上でどれだけ緻密な計算をしようとも、自然という人間の計略を遥かに超えた巨大な力の前に、俺は、あまりにも無力だった。
眠れぬ夜が続いた。
幕舎で一人、地図を睨みつけても、そこに、次なる一手は見えてこない。
このままでは、ローマはセクストゥスによって、内側から干からびていくだけだ。
悩んだ末、俺はただ一人の男の元を訪れることにした。
俺は工兵隊を率いる百人隊長ボルグを伴い徒歩でローマ郊外へと向かった。
目指すは、あの静かな邸宅。我が師、ガイウス・ユリウス・レビルスの元へ。
第二幕:最高の頭脳と最高の現場
書斎で俺たちを迎えたレビルスの瞳は、全てを見透かしているかのように、穏やかだった。
俺が、この邸宅を訪れることを、まるで、予期していたかのように。
俺は、彼の前で、全てを、正直に打ち明けた。
海戦での手痛い敗北。ローマが誇る軍団兵が、揺れる甲板の上で、赤子同然であったこと。
そして、何よりも、「海」という、得体の知れない怪物に、手も足も出なかった、自らの無力さを。
俺の告白を、レビルスは、黙って、最後まで聞いていた。そして、俺が全てを語り終えると、彼は、ゆっくりと、こう、言った。
「…アグリッパ殿。あなたが負けたのは、当然だ。あなたが海戦を船と船との戦いだと、思い込んでいるからだ」
その言葉の意味が、俺には、すぐには理解できなかった。
「海という自然の中で、我々の強さを活かす戦場にするために、適切な道具と訓練は何なのか。例えば船にとは、我々の陸での強さをそのまま海の上へ運ぶための、ただの『道具』に過ぎん。その道具が、今の敵の道具よりも劣っているのならば、より優れた道具を、我々自身の工房で、一から、作り上げれば良いだけの話だ」
工房…。道具…。
その、あまりに斬新な発想に、俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
その時だった。俺の隣に控えていたボルグが、静かに、しかし、確信に満ちた声で、口を開いた。
「…レビルス様の、仰る通りです。かつて、カエサル閣下のガリアでの戦において、デキムス・ブルトゥス様は、敵に船を全て破壊された後、マッシリアの地で、たった30日で、一から、艦隊を作り上げました。木を切り、鉄を打ち、船を組み上げる。我々ローマの工兵隊にとって、それは、砦を築くことと、何ら変わりはありません」
第三幕:過去からの啓示
二人の賢者の言葉が、俺の頭の中にあった、濃い霧を、一瞬で吹き払った。
そうだ。俺がやろうとしていたことは、セクストゥスという、海の王が作った土俵の上で、彼のルールに従って、戦おうとしていただけなのだ。
だから、負けた。
ならば、俺がすべきことは、ただ一つ。
土俵そのものを、ルールそのものを、俺たちの手で、新しく、作り変えてしまえばいい。
必要なものは、二つ。
一つは、敵の襲撃に怯えることなく、安全にそして大量に新しい「道具」である船を建造し、兵士たちを訓練するための巨大な基地。
我々だけの、「工房」だ。
そして、もう一つは海戦の常識そのものを根底から覆す新しい「兵器」。
セクストゥスが誇る快速船の機動力を完全に無力化し、我々が最も得意とする陸兵による白兵戦へと無理矢理にでも引きずり込むための決定的な兵器だ。
俺の頭の中に勝利への明確な道筋がはっきりと見えた。
第四幕:アグリッパの改革
ローマに戻った俺は、直ちにオクタウィアヌスの元へ向かい俺の計画の全てを話した。
彼は黙って俺の言葉に耳を傾け、そして俺が全てを語り終えると、ただ一言こう言った。
「…わかった。海軍に関する全権を、お前に、委任する。金も、人も、お前の、好きに使え」
その絶対的な信頼が、俺の覚悟を決意へと変えた。
俺はまず新しい基地の建設に着手した。
場所はナポリ近郊。
そこにはアウェルヌス湖とルクリヌス湖という二つの巨大な湖があった。
俺はボルグ率いる工兵隊に不可能とも思える命令を下した。
「この二つの湖を運河で繋ぎ、さらに海とも繋げ。湖の底を浚渫し数百隻の船が停泊し訓練できる、巨大な内陸の軍港をここに築き上げるのだ」
それは自然そのものを作り変えるに等しい前代未聞の大事業だった。
だが、ボルグと彼の部下たちは文句一つ言わず、黙々とその巨大な土木工事に取り掛かった。
ローマの「槌」が今、大地を打ち始めたのだ。
俺はこの新しい基地をカエサルの名にちなんで、「ポルトゥス・ユリウス」と名付けた。
次に俺は新兵器の開発を、最高の職人たちに命じた。
それは、投石機によって射出される巨大な鉄の鉤爪だった。
先端には鋭い銛がつき、その後ろには太い綱が結びつけられている。
これを敵の船の甲板に撃ち込み、突き刺し、そして綱を手繰り寄せる。
敵船はその機動力を完全に奪われ、我々の船へと引き寄せられることになる。
俺はこの敵を捕らえて離さない恐るべき兵器を、「ハルパクス(強奪者の意)」と名付けた。
そして最後に俺は兵士を集めた。
だが、それはローマ市民の正規兵ではなかった。
俺は解放奴隷を含む身分の低い者たちの中から、屈強な若者たち二万人を集めたのだった。
彼らにとってこの戦いはローマ市民権を勝ち取り、自らの運命を変えるための唯一の機会だった。
ポルトゥス・ユリウスの湖水の上で、来る日も、来る日も、過酷な訓練が続けられた。
漕ぎ手たちは陸の上に作られた実物大の訓練装置で、来る日も、来る日も櫂を漕いだ。
兵士たちは揺れる模擬船の上で、ハルパクスを撃ち込む訓練を繰り返した。
それはローマの歴史上、誰も見たことのない異様な光景だっただろう。
だが、俺には確信があった。
この静かな湖で、今ローマのそして俺自身の未来を懸けた、新しい力が静かに、しかし、確実に育っているのだと。
セクストゥス・ポンペイウスという、海の王の息の根を完全に止めるための巨大な力が。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




