第三章:ペルシアの戦いの始まり
第一幕:三者の会談
ローマに戻った俺たちを待っていたのは、束の間の休息ではなく、次なる戦いの始まりを告げる、重苦しい空気だった。
北イタリアで反乱の狼煙を上げた執政官ルキウス・アントニウスは、歴戦の兵たちを率い、エトルリア地方の古都、ペルシアに立てこもった。
天然の要害である丘の上に築かれたその街は、鉄壁の守りを誇る城塞都市だ。
パラティヌスの丘にあるオクタウィアヌスの屋敷。
その一室に、俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパと、ガイウス・マエケナス、そして我らが主君、ガイウス・オクタウィアヌスの三人が、地図を挟んで対峙していた。
イタリア全土を駆けずり回った過酷な日々は、俺たちの顔に、年不相応の険しい影を刻みつけていた。
「…ルキウスの背後には、フルウィアがいる。そして、その背後には、間違いなくマルクス・アントニウス本人の意思がある」
最初に沈黙を破ったのは、マエケナスだった。
彼の指が、地図上のペルシアを、とん、と軽く叩く。その瞳は、芸術を愛する詩人のそれではなく、全てを見透かす冷徹な策士の光を宿していた。
「彼は、我々が退役兵への土地分配で、イタリア全土の憎悪を一身に浴びるのを、東方で静かに待っていた。そして、最も効果的な時期に、最も厄介な弟を、我々の心臓部へと送り込んできたというわけだ」
その通りだった。ルキウスの反乱は、単なる地方の暴動ではない。
これは、ローマ世界の覇権を巡る、アントニウスとの代理戦争の始まりなのだ。
市民の支持は、カエサルの正統な後継者を名乗るアントニウスの弟、ルキウスの方に傾きつつある。
俺たちが土地を没収し、市民からパンを奪った憎むべき略奪者であるのに対し、彼は市民を解放し、圧政者オクタウィアヌスを討つという大義名分を掲げている。
「アグリッパ」
静かに、しかし、鋼のような響きを帯びた声で、オクタウィアヌスが俺の名を呼んだ。彼の顔は、心労のためか、病的なまでに青白かったが、その瞳の奥に宿る意志の光は、いささかも揺らいではいなかった。
「ペルシアを、力で落とせるか?」
俺は、地図に視線を落とした。ペルシアの周囲には、険しい丘陵が連なり、天然の防御線を形成している。
城壁は高く、厚い。そして何より、城内には、アントニウスが率いてきた、カエサル軍団の精鋭たちがいる。
正面から力攻めをすれば、多大な犠牲を払うことになるだろう。
「…力攻めは、愚策だ。犠牲が大きすぎる。ですが、方法はある」
俺の言葉に、オクタウィアヌスは、静かに頷いた。
第二幕:ローマの計算
「ならば、役割を分ける」
オクタウィアヌスは、決然と言い放った。
その声には、もはや迷いはなかった。彼は、この若さで、憎まれ役を引き受けるという茨の道を、自ら選んだのだ。その覚悟が、彼の全身から、オーラのように立ち上っていた。
「マエケナス。お前の戦場は、ここだ」
彼の指が、地図の中心、ローマを指し示す。
「俺たちがペルシアで戦っている間、ローマ市民の不満は、限界に達するだろう。お前の仕事は、それを管理し、制御することだ。食糧の配給を管理し、アントニウス派の不穏な動きを監視し、そして何より、プロパガンダを流し続けろ。『市民の敵は、アントニウスの強欲な妻、フルウィアと、その弟ルキウスである』と。市民の憎悪を、彼らへと巧みに誘導するのだ」
「…御意。我が筆と舌で、ローマを、あなたのために守り抜いてみせましょう」
マエケナスは、優雅に一礼した。
彼にとって、言葉と情報は、剣や槍と同じ、いや、それ以上に強力な武器なのだ。
そして、オクタウィアヌスは、俺へと向き直った。
その真摯な瞳が、俺の心を、まっすぐに射抜く。
「アグリッパ。ペルシアの攻略は、お前に全てを任せる。戦術の立案、軍の指揮、兵站の確保、その全てにおいて、お前に全権を委任する。俺は、お前の決定に、一切の口を挟まない。ただ、最高司令官として、お前の背後にある、全ての責任を負う」
それは、絶対的な信頼の言葉だった。
この若き主君は、自らが政治という名の泥を被り、その全ての憎悪を引き受ける覚悟を決め、そして、友人である俺に、軍事という、一点の曇りもない純粋な力の世界を、完全に託そうとしている。
「…必ずや、あなたの期待に応えてみせる」
俺は、力強く、そう答えることしかできなかった。
第三幕:レビルスへの助言
屋敷を出た俺は、馬を駆り、アウェンティヌスの丘にある、一人の男の邸宅へと向かっていた。
ガイウス・ユリウス・レビルス。
齢は四十に届こうかという、脂の乗り切った男。
かつて、カエサルの下で「最高の頭脳」と呼ばれた彼は、第二次三頭政治の成立を見届けた後、全ての公職を辞し、今はローマで静かな隠居生活を送っていた。
だが、その瞳の奥の鋭い光は、いささかも衰えていないことを、俺は知っていた。
俺には、彼の知恵が必要だった。
ペルシアという難攻不落の城塞を前に、俺には一つの腹案があったが、それが最善手であるという確信が持てずにいた。
書斎で、レビルスは、山と積まれたパピルスの巻物に囲まれ、静かに俺を迎えた。
その顔には、戦場を離れたことによる穏やかさが漂っていたが、俺の顔を見るなり、全てを察したように、その目がわずかに細められた。
「…ペルシア、か。厄介な仕事を引き受けたものだな、アグリッパ殿」
「はい。正面からの力攻めは、犠牲が大きすぎるため、避けたいと考えております」
俺が切り出すと、彼は黙って先を促した。
「そこで、兵糧攻めに持ち込もうかと。具体的には、かつてカエサル閣下がアレシアで見せられた、長大な包囲網の建設です。あれを参考に、ペルシアを完全に孤立させられないかと考えております。レビルス様のご意見を、お聞かせ願えませんか」
俺の言葉に、レビルスは、初めて、わずかに笑みを浮かべた。その瞳には、教え子の成長を喜ぶような、温かい光が宿っていた。
「…見事だ、アグリッパ殿。その着眼、間違ってはいない。いや、それこそが、唯一の正解だ」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、壁にかけられた、アレシアの包囲戦の図を指さした。
「城を包囲する時、見るべきは、城を、そして、その中にいる敵を、完全に孤立させるための、『線』だ。カエサル閣下は、アレシアで、敵の城壁を遥かに凌ぐ、長大な包囲網を築かれた。内側には、籠城する敵への備えを。そして、外側には、敵の援軍への備えを。二重の壁で、敵を、巨大な牢獄へと閉じ込めたのだ」
彼の指が、地図上の、二重の包囲線を、ゆっくりとなぞる。
「あなたの考えは、正しい。ペルシアは、確かに、天然の要害だ。だが、それは、見方を変えれば、一度閉じ込めてしまえば、決して外へは出られぬ、完璧な『檻』でもあるということ。あなたが築くべきは、城壁を打ち破るための槌ではない。敵の希望を、完全に断ち切るための、巨大な、そして、決して越えることのできない、絶望の壁だ」
その言葉は、俺の腹案が、確信へと変わる、最後の後押しとなった。
「ありがとうございます、レビルス様。あなたのおかげで、迷いが消えました」
俺は、深く、深く、頭を下げた。
第四幕:包囲の開始
レビルスの邸宅を辞した俺は、その足で、軍団が駐屯する、カンプス・マルティウスへと向かった。
俺の頭の中には、すでに、ペルシアを包囲するための、壮大な設計図が、明確に描かれていた。
数日後。オクタウィアヌスと共に、俺は、数万の軍団を率いて、ローマを出立した。
目指すは、北イタリアの城塞都市、ペルシア。
現地に到着した俺は、すぐに、工兵隊を指揮する百人隊長を呼び寄せた。
ボルグ。かつてレビルスの副官を務め、土木技術と測量術にかけては、軍団随一の腕を持つ男だ。
「ボルグ。ペルシアの周囲、10キロメートルに渡って、二重の包囲網を築く。高さ3メートル、幅2メートルの土塁だ。その外側には、深さ3メートルの空堀を掘る。内側の壁には、等間隔で監視塔を設置し、投石機を配置する。外側の壁には、敵の援軍を警戒するための、砦を築く。資材は、この周辺の木を、全て伐採して使え」
俺の命令に、ボルグは、微動だにせず、しかし、その瞳に確かな闘志を宿して、力強く頷いた。
「はっ。将軍の意図、理解いたしました。我が工兵隊の全力を以て、必ずや、成し遂げてみせます」
その日から、俺たちの、もう一つの戦いが始まった。
剣や槍ではなく、鋤と、槌と、そして、測量縄による、巨大な土木工事という名の、戦いが。
ペルシアの城壁の上から、ルキウス・アントニウスの軍団が、いぶかしげに、俺たちの作業を眺めているのが見えた。
彼らは、まだ、俺たちが何をしようとしているのか、その本当の意味を、理解してはいなかっただろう。
俺は、冷徹な計算に基づき、巨大な檻を、ゆっくりと、しかし、確実に、築き上げていく。
それは、アントニウスの野望を打ち砕き、ローマの未来を、我らの主君、オクタウィアヌスの手に取り戻すための、長きに渡る、ペルシア包囲戦の、静かな始まりだった。
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