第二章:茨の道
第一幕:憎まれ役の計算
紀元前41年。マルクス・アントニウスが、東方の豊かな属州で、エジプトの女王と共に栄華を極めている頃、我々が戻ったローマは、二つの巨大な爆弾を抱えた、火薬庫そのものだった。
一つは、フィリッピで勝利を収めた、数十万の退役兵たちへの**「土地分配」という、約束。
そして、もう一つは、シチリアを拠点とするセクストゥス・ポンペイウスによる海上封鎖がもたらした、深刻な「食糧不安」**。
私、ガイウス・マエケナスは、パラティヌスの丘に設えた執務室で、イタリア全土から刻一刻と上がってくる、憂慮すべき報告書の山を前に、頭を抱えていた。
兵士たちは、約束された土地を、今すぐにでもよこせと、不穏な動きを見せ始めている。
ローマの市民たちは、日に日に高騰するパンの価格に、怒りの声を上げている。
この二つの問題は、複雑に絡み合い、互いに憎悪を増幅させながら、我々の足元を、今にも飲み込もうとしていた。
その重苦しい沈黙を破ったのは、我が主君、オクタウィアヌスの、静かで、しかし鋼のように冷たい声だった。
「…やるしかない」
彼は、イタリア全土が描かれた地図を、広げた。
そして、その上に、まるで血の滴を落とすかのように、十八の都市を、一つずつ、指でなぞっていった。
「この十八の都市から、土地を、強制的に没収する」
その言葉に、同席していたアグリッパが、息を呑んだ。
「正気か、オクタウィアヌス! それでは、我々は、イタリア全土を、敵に回すことになるぞ!」
「ああ、正気だ」と、オクタウィアヌスは答えた。
「そして、その憎悪は、全て、この私が引き受ける」
彼は、アグリッパの目を、真っ直ぐに見据えた。
「アグリッパ。君には、その際に起こるであろう、全ての反乱を、力で鎮圧してもらう。一切の情けは、無用だ。我々が、ここで弱さを見せれば、この国は、再び内乱の渦に飲み込まれる」
そして、彼は、私に向き直った。
「マエケナス。君には、市民の不満の矛先を、巧みに誘導してもらう。この土地問題の、本当の原因は、どこにあるのか。それは、我々を裏切り、東方で富を独占するアントニウスと、ローマの生命線を脅かす海賊セクストゥスにあるのだ、と。全ての媒体を使い、そのプロパガンダを、徹底的に流せ」
それは、あまりにも非情で、そして、あまりにも危険な、茨の道だった。
オクタウィアヌスは、自らが、イタリア全土の憎悪を一身に引き受ける「憎まれ役」となる覚悟を、決めたのだ。
そして、その憎悪を、アグリッパの「剣」で抑えつけ、私の「知略」で、真の敵へと、逸らす。
三人は、それぞれの役割を、再確認した。
カエサルが遺した、ローマを、真の平和へと導くため、我々は、自ら、悪魔にさえならねばならないのだ。
第二幕:燃え広がる不満
数週間後、俺たちの懸念は、最悪の形で、現実のものとなった。
オクタウィアヌスの命令が実行されるや否や、イタリア全土は、文字通り、炎に包まれた。
土地を没収された都市では、市民たちが、農具を手に、測量に訪れた役人たちを襲撃し、殺害するという、暴動が、日常茶飯事となった。
ローマ市内では、パンの価格が、ついに暴動前の三倍にまで高騰し、飢えた市民たちが、パン屋を襲い、略奪を繰り返す。
俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、軍団を率いて、イタリア半島を、東へ西へと、駆けずり回っていた。
反乱の火種を見つけては、その武力で、容赦なく踏み潰す。
その日々は、俺の心を、確実に、麻痺させていった。
相手は、異国の蛮族ではない。同じ、ローマ市民だ。
昨日まで、畑を耕し、家族と暮らしていたはずの、普通の人々。
その彼らを、俺は、剣で斬り、鎮圧していく。彼らの瞳に宿る、憎悪の炎が、俺の魂を、内側から焼き焦がしていくようだった。
マエケナスが流すプロパガンダも、この燃え盛る炎の前では、焼け石に水だった。
市民の怒りは、遠い東方にいるアントニウスや、海の上にいるセクストゥスではなく、目の前で、自分たちの土地とパンを奪っていく、我々オクタウィアヌスへと、真っ直ぐに向けられていた。
イタリアの治安は、急速に、そして確実に、悪化していた。
これは、もはや統治とは呼べない。ただの、力による、抑圧だった。
第三幕:二つの戦線
この危機的状況を受け、オクタウィアヌスは、決断を下した。
「…アグリッパ。このままでは、イタリア全土が、内側から崩壊する。我々は、二手に分かれる」
彼は、地図を広げ、俺に指示を与えた。
「私は、退役兵たちの不満が、最も高まっている、カンパニア地方へと向かう。彼らと直接対話し、なだめ、この土地分配を、何としても完了させる。それが、私の仕事だ」
そして、彼は、北イタリアの一点を、指さした。
「君は、北へ向かってくれ、アグリッパ。アントニウスの弟、ルキウスが、ガリアで不穏な動きを見せている。彼が、この混乱に乗じて、南下してくる可能性が、極めて高い。君は、そのための、防波堤となれ」
俺たちは、この燃え盛るイタリアで、別々の戦線を、担当することになった。
俺は、友の、そのやつれ果てた顔に、何も言わず、ただ力強く、頷いた。
そして、それぞれの軍団を率いて、それぞれの、茨の道へと、向かった。
第四幕:ペルシアの反乱
俺たちが、ローマを離れてから、数週間後。
俺たちの、最大の懸念は、現実のものとなった。
俺とオクタウィアヌスの不在を突き、アントニウスの弟ルキウスと、その妻であり、猛婦として知られるフルウィアが、ついに、公然と、反旗を翻したのだ。
彼らは、イタリアの混乱は、全てオクタウィアヌスの失政にあると断じ、アントニウスこそが、真のローマの指導者であると、宣言した。
そして、その言葉に扇動された、アントニウス派の軍団を率いて、南下を開始。
守るべき軍事力を失った、無防備な首都ローマを、いとも容易く、一時的に占領してしまった。
その報せが、北イタリアで防衛線を固めていた俺と、カンパニアで退役兵たちとの交渉に追われていたオクタウィアヌスの元に、同時に届けられた。
俺たちは、即座に、行動を開始した。
それぞれの軍団を、反転させ、ローマへと、急行する。
俺たちの、この迅速な動きを、ルキウスとフルウィアは、予測していなかったのだろう。
彼らは、我々二人の軍団に、南北から挟撃されることを恐れ、ローマを放棄。
そして、アペニン山脈の険しい地形に守られた、エトルリア地方の、強固な城塞都市、ペルシアへと、敗走し、立てこもった。
ついに、火蓋は切られた。
三頭政治の、最初の内乱。
ペルシアの戦いが、今、始まろうとしていた。
俺は、ペルシアの、あの峻険な城壁を見上げながら、この長く、そして血塗られた戦いが、まだ、その序盤に過ぎないことを、改めて、実感していた。
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