第一章:タルソスの女王
フィリッピの戦いが終わり、カエサルの復讐が果たされた今、マルクス・アントニウスは、名実ともに東方世界の覇者となっていた。
ブルトゥスとカッシウスの首はローマへ送られ、共和派の残党は一掃された。
ローマ世界の東半分は、今や完全に彼の手中にあった。
紀元前41年。
彼は、その広大な領地の巡察の拠点として、キリキア属州の都タルソスに滞在していた。
属州の王たちや、自治都市の代表たちが、次々と彼の下へと訪れ、忠誠を誓い、貢物を捧げる。
その光景は、彼がこの東方世界における、絶対的な支配者であることを、何よりも雄弁に物語っていた。
だが、その支配者の機嫌は、決して良いものではなかった。
彼の前には、まだ一人、頭を垂れていない、大物が残っていたからだ。
プトレマイオス朝エジプトの女王、クレオパトラ。
カエサル暗殺後の内乱において、彼女が共和派のカッシウスに、資金と艦隊を提供したという、看過できぬ疑いがあった。
アントニウスは、その罪を問い質すため、彼女にタルソスへの出頭を命じた。
それは、支配者から、罪を犯した疑いのある、属国の女王への、一方的な召喚状に過ぎなかった。
(…あの女狐め。今頃、必死で言い訳でも考えていることだろう)
アントニウスは、葡萄酒の杯を呷りながら、一人ごちた。
彼は、クレオパトラのことを、かつて父カエサルをその色香で惑わせた、危険な女だと認識していた。
だが、それだけだ。カエサル亡き今、彼女の後ろ盾は、何もない。自分の前に引き出されれば、命乞いのために、そのプライドを捨て、みっともなく平伏するに違いない。
彼は、その光景を想像し、口元に、残忍な笑みを浮かべた。
会談の当日。
アントニウスは、タルソスの街の中央広場に、壮麗な裁きの座を設け、女王の到着を待っていた。だが、待てど暮らせど、彼女が姿を現す気配はない。
「女王は、まだか!」
苛立ちを隠そうともせずに、彼が怒鳴った、まさにその時だった。
広場にいた群衆から、どよめきと、歓声が上がったのは。
アントニウスが、怪訝な顔で、その歓声の方向へと目を向けた瞬間、彼は、自らの目を疑った。
街を流れるキュドノス川を、一隻の、巨大で、そして金色の船が、ゆっくりと遡上してきていたのだ。
その船は、この世のものとは思えぬほど、幻想的な美しさを放っていた。
船首は黄金で飾られ、船体は紫の帆を張り、銀の櫂が、まるで音楽を奏でるかのように、水面を打っている。
そして、甲板で焚かれた香の煙が、甘く、そして官能的な香りを、岸辺にまで届けていた。
アントニウスも、そして広場にいた全ての者たちが、その光景に、完全に心を奪われていた。
やがて、船が岸に着くと、その中央に設けられた、金の日除けの下から、一人の女性が、ゆっくりと姿を現した。
その瞬間、群衆から、割れんばかりの歓声が上がった。
「イシス様だ! 女神イシス様が、我々の元へ!」
彼女は、エジプトの豊穣の女神、イシスの姿に、その身を扮していた。
透けるような薄衣をまとい、その豊満な肢体を惜しげもなく晒し、その首や腕は、ナイルの財宝を全て集めたかのように、煌びやかな宝石で飾られている。
そして、その顔。
アントニウスは、息を呑んだ。
噂には聞いていた。だが、これほどとは。ただ美しいだけではない。
その瞳には、男の魂を、その根源から揺さぶるような、抗いがたい魔力が宿っていた。
そして何より、その表情には、罪人としての怯えや、恐怖など、微塵も浮かんでいなかった。
代わりにあったのは、この場にいる全ての人間を、自らの神殿に詣でた信者として見下すような、絶対的な女王としての、自信と余裕だった。
アントニウスは、自分が、この芝居がかった演出の、一人の観客に過ぎないことを悟った。
いや、それどころか、彼女が演じる、この壮大な神話劇の、最も重要な登場人物として、その舞台の上に、引きずり込まれようとしているのだ。
その夜、アントニウスの邸宅で開かれた祝宴に、クレオパトラは、何事もなかったかのように、現れた。
アントニウスは、彼女の罪を問い質すつもりだった。
ローマの支配者として、厳格な裁きを下すつもりだった。
だが、彼の口から出たのは、罪状を問う言葉ではなかった。
「…女王陛下。あなたの、その美しさを称え、今宵は、杯を交わしたい」
クレオパトラは、その言葉に、蠱惑的な笑みを浮かべた。
その瞳は、「それでこそ、我が好敵手カエサルが認めた男よ」と、語っているかのようだった。
彼女は、アントニウスの隣に座ると、まるで長年の友のように、政治を、哲学を、そして、かつて共に過ごした、カエサルの思い出を、語り始めた。
その知性は、いかなるローマの哲学者にも劣らず、その大胆不敵さは、いかなる猛将をも、たじろがせるほどだった。
アントニウスは、一瞬で、彼女の虜となっていた。
彼は、ローマの将来を議論することよりも、彼女と共に、ナイルの美酒を酌み交わすことを、選んだ。
このタルソスでの、運命的な出会い。
それが、ローマ世界の半分を、そして、彼自身の魂を、このエジプトの女王に、売り渡す、その第一歩であったことを、この時の彼は、まだ知る由もなかった。
彼はただ、カエサルさえも虜にしたという、この東方の魔女の、底知れない魅力の深淵を、もっと知りたいと、子供のように、願っていた。
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