表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
建国記異聞  作者: 奪胎院
第五部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/60

第一章:タルソスの女王

フィリッピの戦いが終わり、カエサルの復讐が果たされた今、マルクス・アントニウスは、名実ともに東方世界の覇者となっていた。


ブルトゥスとカッシウスの首はローマへ送られ、共和派の残党は一掃された。


ローマ世界の東半分は、今や完全に彼の手中にあった。


紀元前41年。


彼は、その広大な領地の巡察の拠点として、キリキア属州の都タルソスに滞在していた。


属州の王たちや、自治都市の代表たちが、次々と彼の下へと訪れ、忠誠を誓い、貢物を捧げる。


その光景は、彼がこの東方世界における、絶対的な支配者であることを、何よりも雄弁に物語っていた。


だが、その支配者の機嫌は、決して良いものではなかった。


彼の前には、まだ一人、頭を垂れていない、大物が残っていたからだ。


プトレマイオス朝エジプトの女王、クレオパトラ。


カエサル暗殺後の内乱において、彼女が共和派のカッシウスに、資金と艦隊を提供したという、看過できぬ疑いがあった。


アントニウスは、その罪を問い質すため、彼女にタルソスへの出頭を命じた。


それは、支配者から、罪を犯した疑いのある、属国の女王への、一方的な召喚状に過ぎなかった。


(…あの女狐め。今頃、必死で言い訳でも考えていることだろう)


アントニウスは、葡萄酒の杯を呷りながら、一人ごちた。


彼は、クレオパトラのことを、かつて父カエサルをその色香で惑わせた、危険な女だと認識していた。


だが、それだけだ。カエサル亡き今、彼女の後ろ盾は、何もない。自分の前に引き出されれば、命乞いのために、そのプライドを捨て、みっともなく平伏するに違いない。


彼は、その光景を想像し、口元に、残忍な笑みを浮かべた。


会談の当日。


アントニウスは、タルソスの街の中央広場に、壮麗な裁きの座を設け、女王の到着を待っていた。だが、待てど暮らせど、彼女が姿を現す気配はない。


「女王は、まだか!」


苛立ちを隠そうともせずに、彼が怒鳴った、まさにその時だった。


広場にいた群衆から、どよめきと、歓声が上がったのは。


アントニウスが、怪訝な顔で、その歓声の方向へと目を向けた瞬間、彼は、自らの目を疑った。


街を流れるキュドノス川を、一隻の、巨大で、そして金色の船が、ゆっくりと遡上してきていたのだ。


その船は、この世のものとは思えぬほど、幻想的な美しさを放っていた。


船首は黄金で飾られ、船体は紫の帆を張り、銀の櫂が、まるで音楽を奏でるかのように、水面を打っている。


そして、甲板で焚かれた香の煙が、甘く、そして官能的な香りを、岸辺にまで届けていた。


アントニウスも、そして広場にいた全ての者たちが、その光景に、完全に心を奪われていた。


やがて、船が岸に着くと、その中央に設けられた、金の日除けの下から、一人の女性が、ゆっくりと姿を現した。


その瞬間、群衆から、割れんばかりの歓声が上がった。


「イシス様だ! 女神イシス様が、我々の元へ!」


彼女は、エジプトの豊穣の女神、イシスの姿に、その身を扮していた。


透けるような薄衣をまとい、その豊満な肢体を惜しげもなく晒し、その首や腕は、ナイルの財宝を全て集めたかのように、煌びやかな宝石で飾られている。


そして、その顔。


アントニウスは、息を呑んだ。


噂には聞いていた。だが、これほどとは。ただ美しいだけではない。


その瞳には、男の魂を、その根源から揺さぶるような、抗いがたい魔力が宿っていた。


そして何より、その表情には、罪人としての怯えや、恐怖など、微塵も浮かんでいなかった。


代わりにあったのは、この場にいる全ての人間を、自らの神殿に詣でた信者として見下すような、絶対的な女王としての、自信と余裕だった。


アントニウスは、自分が、この芝居がかった演出の、一人の観客に過ぎないことを悟った。


いや、それどころか、彼女が演じる、この壮大な神話劇の、最も重要な登場人物として、その舞台の上に、引きずり込まれようとしているのだ。


その夜、アントニウスの邸宅で開かれた祝宴に、クレオパトラは、何事もなかったかのように、現れた。


アントニウスは、彼女の罪を問い質すつもりだった。


ローマの支配者として、厳格な裁きを下すつもりだった。


だが、彼の口から出たのは、罪状を問う言葉ではなかった。


「…女王陛下。あなたの、その美しさを称え、今宵は、杯を交わしたい」


クレオパトラは、その言葉に、蠱惑的な笑みを浮かべた。


その瞳は、「それでこそ、我が好敵手カエサルが認めた男よ」と、語っているかのようだった。


彼女は、アントニウスの隣に座ると、まるで長年の友のように、政治を、哲学を、そして、かつて共に過ごした、カエサルの思い出を、語り始めた。


その知性は、いかなるローマの哲学者にも劣らず、その大胆不敵さは、いかなる猛将をも、たじろがせるほどだった。


アントニウスは、一瞬で、彼女の虜となっていた。


彼は、ローマの将来を議論することよりも、彼女と共に、ナイルの美酒を酌み交わすことを、選んだ。


このタルソスでの、運命的な出会い。


それが、ローマ世界の半分を、そして、彼自身の魂を、このエジプトの女王に、売り渡す、その第一歩であったことを、この時の彼は、まだ知る由もなかった。


彼はただ、カエサルさえも虜にしたという、この東方の魔女の、底知れない魅力の深淵を、もっと知りたいと、子供のように、願っていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ