第八章:世界の分割
第一幕:ブルトゥスの最期
第二次フィリッピの戦いは、我々の完全な勝利に終わった。
だが、その勝利の喧騒が嘘のように、フィリッピ近郊の、とある丘の上だけは、静寂に包まれていた。
俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、その場所に、アントニウスと共に立っていた。
俺たちの目の前には、数人の忠実な友人に看取られ、自らの剣の上にその身を投げて果てた、一人の男の亡骸が横たわっていた。
マルクス・ユニウス・ブルトゥス。
カエサルの暗殺者。
そして、「共和国の守護者」として、最後まで自らの理想のために戦い抜いた、最後のローマ人。
彼の顔には、苦悶の表情はなかった。
ただ、全てを終えた者の、深い安堵のようなものが、浮かんでいるように見えた。
長い、長い沈黙が、続いた。
やがて、その沈黙を破ったのは、アントニウスだった。
彼は、何も言わずに、自らが羽織っていた、総司令官の証である、鮮やかな紫のマントを、そっと脱いだ。
そして、そのマントを、ブルトゥスの亡骸の上に、静かに掛けた。
それは、敵将に対する、最大の敬意の表れだった。
アントニウスは、ブルトゥスを、憎むべき敵としてではなく、同じローマの軍人として、その誇り高き最期を、称えたのだ。
その行為に、俺は、アントニウスという男の、猛将としてだけでない、器の大きさを、改めて見た気がした。
カエサルの、復讐は、終わった。
ブルトゥスも、カッシウスも、そして、父を裏切った全ての者たちが、この世を去った。
一年半以上もの間、俺たちの心を縛り付けてきた、重い、重い鎖が、今、ようやく断ち切られたのだ。
俺の胸には、安堵感が、温かい波のように広がっていた。
だが、その安徳と同時に、言いようのない、空虚感が、俺の心を支配していた。
ブルトゥスは、悪人ではなかった。
彼は、彼が信じる「正義」のために、戦っただけだ。
彼が守ろうとした、共和政という、一つの理想。
その理想が、彼の死と共に、今、完全に、このローマから消え失せた。
俺たちは、確かに、復讐を果たした。
だが、その代償として、俺たちは、一つの時代を、完全に終わらせてしまったのだ。
そのことの、本当の意味を、この時の俺は、まだ理解できていなかったのかもしれない。
第二幕:世界の分割
カエサルの復讐という、三頭政治を結びつけていた唯一の目的が果たされた今、フィリッピの陣営では、次なるローマの支配体制を巡る、静かで、しかし熾烈な駆け引きが始まっていた。
その中心にいたのは、もちろん、この戦争の二人の勝利者、オクタウィアヌスとアントニウスだった。
数日後、その取り決めは、公式に発表された。
ローマ世界は、三人の支配者によって、分割される、と。
「…なんだと?」
その内容を聞いた時、俺は、自らの耳を疑った。
マルクス・アントニウス。
この戦いの最大の功労者である彼は、その功績に相応しく、金と、栄光に満ちた、豊かな東方属州の全てを手に入れる。
エジプト、ギリシャ、そしてアジア。ローマの富の源泉ともいえる、その全てを、彼は統治することになった。
そして、三頭政治のもう一角、マルクス・アエミリウス・レピドゥス。
彼は、この戦いにおいて目立った功績はなかったが、名門貴族としての権威を認められ、アフリカ属州を与えられることになった。
一方、我が主君、オクタウィアヌス。
カエサルの正当な後継者である彼に与えられたのは、困難を極める、イタリア本土と、ヒスパニアをはじめとする西方属州だった。
イタリア本土には、何十万という退役兵たちへの、土地分配という、厄介な問題が山積している。
そして、地中海では、セクストゥス・ポンペイウスの海賊艦隊が制海権を握り、ローマへの食糧供給を脅かしている。
誰の目にも、それは、あまりにも不公平な分割に見えた。
戦場で最も輝かしい功績を上げたアントニウスが、最も豊かで安定した土地を得る。
レピドゥスも、安全な土地を得る。
一方で、病に倒れ、戦場では目立った活躍のできなかったオクタウィアヌスは、最も困難で、最も貧しい、厄介事の多い土地を、押し付けられた。
「なぜだ、オクタウィアヌス!」
俺は、二人きりになった天幕で、友に詰め寄った。
「なぜ、こんな不公平な条件を、飲んだのだ! これでは、まるでアントニウス殿の、属州総督ではないか! 父カエサルの後継者として、あまりにも屈辱的だ!」
俺の激昂を、オクタウィアヌスは、静かな、そして、どこか憐れむような目で見つめていた。
そして、彼は、一枚の地図を、俺の前に広げた。
「アグリッパ。君は、まだ、本当の『戦場』が、どこにあるのか、分かっていないらしいな」
彼の指が、地図の一点を、強く指し示した。
そこは、豊かな東方属州ではない。荒々しい西方属州でもない。
ローマ。ただ、その一点だった。
「アントニウスは、東方の金と、エジプトの女王の蜜に、目を奪われている。レピドゥスは、アフリカの統治で手一杯になるだろう。それでいいのだ。彼らが、それぞれの領地で、栄華を夢見ている間に、私は、このローマ帝国の『心臓部』を、完全に掌握する」
その言葉に、俺は、はっとした。
「兵士たちへの、土地分配。それは、困難な仕事だ。だが、それを成し遂げた時、イタリアにいる、全ての退役兵たちの忠誠は、誰の元へと集まる? セクストゥスとの戦い。それも、困難な戦いだ。だが、それに勝利し、ローマ市民を飢餓から救った時、ローマの民衆は、誰を『救世主』と呼ぶ?」
彼の声は、静かだったが、その奥には、恐るべき、そして底知れないほどの、野心が渦巻いていた。
「アントニウスは、領土を得た。だが、私は、『ローマ』そのものを、手に入れるのだ。アグリッパ、本当の戦いは、これから始まるのだよ」
俺は、戦慄した。
友の、その人間離れした、計算高さに。
彼は、目先の利益ではなく、その先にある、ローマ世界の、絶対的な支配権だけを、見据えているのだ。
カエサルの復讐という、共通の目的が消え去った、今。
この不公平に見える分割こそが、二人の英雄の間に、次なる、そして、おそらくは最後の、巨大な内乱の種が蒔かれた瞬間であったことを、俺は、確信した。
その種が、やて芽を出し、ローマ世界全体を覆う、巨大な戦乱の木へと成長していく未来を、俺は、この時、はっきりと見ていた。
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