第四章:第一次フィリッピの戦い
紀元前42年10月。マケドニアのフィリッピの平原に、ローマ世界の未来を決する、二つの巨大な軍勢が対峙していた。
西には、我ら三頭政治軍。東には、ブルトゥスとカッシウス率いる共和派軍。
両軍合わせて二十万近くの兵士たちが、大地を埋め尽くし、互いの陣営を睨み合っている。
カエサルの復讐を果たすための、最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
だが、決戦を目前に控えた我々の陣営は、一つの、そして致命的な問題を抱えていた。
我が主君であり、この戦いの一翼を担うべきガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスが、またしても、あの持病に倒れたのだ。
高熱に浮かされ、意識も朦朧とした友は、もはや軍団の指揮を執れる状態ではなかった。
「アグリッパ」
アントニウスが、重々しい声で俺の肩を叩いた。
その瞳には、苛立ちと、そしてかすかな侮蔑の色が浮かんでいるように見えた。
「小僧のことは、もういい。貴様が、奴の軍団の指揮を執れ。俺の足を引っ張るなよ」
その言葉は、屈辱だった。だが、俺は、何も言い返せなかった。
事実、この戦場において、指揮官としての経験も、実績も、俺はアントニウスの足元にも及ばない。
そして何より、友の軍団を、この窮地から救えるのは、俺しかいないのだ。
「…承知している」
俺は、短く答えると、天幕を出た。
もう、迷いはない。友が、その病床で、俺に全てを託してくれたのだ。
俺は、彼の「剣」だ。そして、今、その剣は、主君の魂を、その身に宿した。俺が、オクタウィアヌスとして、この戦いを戦い抜く。
戦闘の火蓋は、アントニウス軍の、凄まじい突撃によって切られた。
平原の右翼。
アントニウスは、自ら先頭に立ち、歴戦の猛将の名に恥じぬ、圧倒的な武勇で、カッシウスの軍団を、巨大な猪のように食い破っていく。その光景に、俺は、畏敬の念を禁じ得なかった。
だが、俺が感傷に浸っている暇はなかった。
平原の左翼。
俺たちが対峙する、ブルトゥスの軍団が、雄叫びを上げて、こちらへと殺到してきたのだ。
「持ちこたえろ! 陣形を崩すな! 俺に続け!」
俺は、声を張り上げ、最前線へと駆け出した。
友の軍団を、俺が守る。
だが、ブルトゥス軍の攻撃は、常軌を逸していた。
彼らは、俺たちの歩兵戦列を崩そうとするのではない。
まるで、俺たちの存在など無いかのように、その背後にある、ただ一点だけを目指して、狂ったように殺到してくるのだ。
オクタウィアヌスの、陣営。
その天幕だけを目指して。
彼らは、統制を失っていた。
ブルトゥスの指揮さえも無視し、ただ、憎きカエサルの後継者の首を獲り、その陣営の富を略奪するという、剥き出しの欲望の塊となって、突撃してくる。
それは、もはや軍隊ではなく、巨大な津波だった。
「防衛線を下げろ! 陣営の前で、円陣を組め! 何としても、司令部を守り抜け!」
俺は、必死に叫んだ。
だが、一度崩れた統制は、もはや取り戻せない。
兵士たちは、その津波に飲み込まれ、散り散りになっていく。
そして、ついに、津波は、俺たちの司令部を飲み込んだ。
「陣営が…! 陣営が、落ちるぞ!」
兵士たちの、悲鳴のような声が上がる。
俺は、信じられない光景を、目の当たりにしていた。数刻前まで、友が眠っていたはずの天幕に、敵の旗が、翻っている。
その天幕は、敵兵たちによって、ズタズタに引き裂かれていた。
我々は、負けたのだ。そして、友は、死んだのだ。
敗北と、友を失ったという絶望が、俺の全身を支配しようとしていた。
だが、その時、皮肉な幸運が、俺たちに、わずかな時間を与えてくれた。
陣営になだれ込んだブルトゥス軍の兵士たちの多くが、敵兵の追撃よりも、天幕に残された物資や食料の略奪に夢中になったのだ。
「後退! 後退だ! あの丘の上まで退がるぞ!」
俺は、まだ統率が取れていた、手元の数十人の兵士たちに叫んだ。
今は、全滅を避けることが最優先だ。俺たちは、戦場の混乱から離れた、小高い丘の上を、新たな集合地点と定めた。
丘の上にたどり着くと、俺は、すぐに腹心の百人隊長たちに命令を下した。
「角笛を鳴らせ! 我々の軍団旗を、高く掲げろ! 生き残った者たちに、我々が、まだここにいることを、知らせるのだ!」
ローマ軍の強さの根幹は、ケントゥリオ(百人隊長)にある。
俺からの直接命令が届かなくなっても、彼らは、それぞれの判断で、部下をまとめ、叫び、自らが守るべき軍旗の下へと、散り散りになった兵士たちを、再集結させようとしていた。
俺は、丘の上から、その光景を見つめながら、彼らと連携し、この崩壊した軍団を、一人、また一人と、掌握していった。
だが、兵士たちの士気は、最低だった。
敗北し、陣営を奪われた。ローマ軍として、これ以上の屈辱はない。
多くの者が、武器を捨て、このまま敗走しようとしていた。
その、壊滅しかけていた兵士たちの心を、繋ぎ止めたのは、一つの報せだった。
右翼から、一騎の伝令が、血まみれになりながらも、駆け込んできたのだ。
「勝利だ! アントニウス様が、カッシウスの軍団を、完全に粉砕された! 敵の陣営は陥落! カッシウスは、敗走した!」
その一言が、全てを変えた。
兵士たちの間に、歓声は上がらない。
だが、その瞳に、光が戻った。絶望の淵にいた彼らの心に、「まだ戦いは終わっていない」「まだ勝機はある」という、最後の希望が、灯ったのだ。
この報せこそが、我々の軍団が、完全な敗走(潰走)を免れるための、最後の砦となった。
夕闇が、フィリッピの平原を覆い始めていた。
俺は、再編した、しかし傷だらけの軍団の中で、静まり返った戦場を、見つめていた。
カッシウス軍は敗れた。
だが、ブルトゥス軍は、健在だ。そして、俺たちは、陣営を失い、多くの仲間を失い、そして何よりも、心の支柱である主君を、失った。
勝利の歓声は、どこにもない。
あるのは、お互いの血で染まった、広大な大地と、この戦いが、まだ、何も終わっていないという、重い、重い沈黙だけだった。
俺は、最後に為すべき、最も重要な任務を、思い出した。
「捜索隊を出せ」
俺は、百人隊長の一人に、静かに、しかし、力強く命じた。
「オクタウィアヌス様を、探すのだ。ブルトゥス軍が突入する直前、天幕から運び出されたという情報がある。侍医のアルトリウス殿と共に、後方の湿地帯へ向かったはずだ。夜が明けるまでに、必ず、見つけ出すのだ」
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