第三章:アドリア海を渡れ
第一幕:海上の戦い
紀元前42年夏。ブルンディシウムの港から、ついに三頭政治軍の巨大な船団が、アドリア海の対岸、マケドニアへと向けて出港した。
カエサルの復讐を果たすための、最後の戦いが、ついに始まったのだ。
だが、その船出は、決して順風満帆なものではなかった。
制海権は、完全に敵の手中にあった。
ブルトゥスとカッシウスの共和派軍は、優秀な提督たちの下、数で我々を遥かに上回る大艦隊をアドリア海に展開し、我々の渡海を阻むべく、鉄壁の海上封鎖網を敷いていたのだ。
俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、オクタウィアヌス軍の一部隊を率い、アントニウスが指揮する主力軍の一員として、輸送船の甲板から、暗く、荒れ狂う海面を睨みつけていた。
我々の作戦は、戦術と呼ぶには、あまりにも粗雑で、そして無謀なものだった。
「敵の封鎖網の隙を突き、全速力で対岸まで渡り切る」。ただ、それだけ。
戦闘用の軍艦はほとんどなく、我々が乗っているのは、敵の攻撃に対してあまりにも無力な、動きの鈍い輸送船だ。
敵艦隊に捕捉されれば、我々は、海上で一方的に虐殺されるだけの、ただの的だった。
「…これが、戦いか」
俺は、吐き捨てるように呟いた。陸での戦いであれば、いかに不利な状況でも、俺は活路を見出す自信があった。
だが、この海の上では、俺の武勇も、兵士たちの屈強さも、ほとんど意味をなさない。
俺たちの運命は、ただ、風と、波と、そして何よりも、幸運の女神の気まぐれに、委ねられているのだ。
数時間後、見張り台からの絶叫が、俺たちの船団に響き渡った。
「敵艦だ! 敵艦隊発見!」
水平線の向こうに、共和派艦隊の、無数の帆が見えた。
彼らは、我々を完全に捕捉していた。船団のあちこちから、兵士たちのうろたえる声が上がる。
だが、その混乱を、アントニウスの雷のような怒号が、一瞬で鎮めた。
「うろたえるな! 貴様らはカエサルの兵士だろうが! 敵に背を向けるな! 漕げ! ただ、前へ進め! 対岸にたどり着いた者だけが、生き残ると思え!」
その声は、恐怖に怯える兵士たちの魂に、再び火を灯した。
そうだ、俺たちは、カエサルの兵士だ。そして、この戦いは、父の復讐を果たすための、聖戦なのだ。
敵艦から放たれる投石が、次々と俺たちの船団に着弾し、巨大な水柱と、木片を宙にまき散らす。
味方の船が、目の前で轟音と共に砕け散り、兵士たちが、なすすべもなく、暗い海の中へと飲み込まれていく。
俺は、その惨状を、歯を食いしばって見つめることしかできなかった。
我々の捨て身の強行突破は、敵の封鎖網に、わずかな隙間を生んだ。
俺たちの船団は、その穴を、文字通り血路を開いて、通り抜けたのだ。
何とかギリシャの地へと上陸を果たした時、俺たちの部隊に、壊滅的なほどの人的損害は出ていないことが分かり、兵士たちの間には、九死に一生を得たことへの、束の間の安堵が広がった。
だが、その安堵は、数日後にもたらされた、一つの絶望的な報せによって、完全に打ち砕かれることになる。
兵士たちを降ろし、イタリアへ引き返そうとした輸送船団のほとんどが、敵艦隊に捕捉され、撃沈された、と。
俺たちは、敵地に取り残されたのだ。
補給も、増援も、もはや期待できない。背後には、荒れ狂うアドリア海。
そして、目の前には、ブルトゥスとカッシウスの、二十個軍団を超える大軍が待ち構えている。
俺たちの生き残る道は、もはや、ただ一つ。
このフィリッピの平原で、敵を打ち破ること。それ以外には、なかった。
第二幕:静かなる戦争
同じ頃、ローマ。
私、ガイウス・マエケナスは、オッピウス殿の邸宅の一室で、ローマ市内から刻一刻と上がってくる、憂慮すべき状況報告を、一人で分析していた。
主君オクタウィアヌスと、猛将アントニウス。そして、ローマの軍事力の大部分が、遠い東方の戦場へと向かった今、この首都は、静かだが、しかし深刻な病に蝕まれ始めていた。
最大の脅威は、シチリアを拠点とする、セクストゥス・ポンペイウスによる、海上封鎖だった。
カエサルのかつての好敵手、ポンペイウスの息子である彼は、強力な海賊艦隊を組織し、ローマの生命線である、地中海の制海権を脅かしていた。
アフリカやエジプトからの穀物輸送船が、次々と彼の手に落ち、ローマ市内の食糧価格は、日増しに高騰しつつある。
市民の間には、飢餓への不安が、暗い影のように広がり始めていた。
それに加え、プロスクリプティオが残した傷跡も、未だ生々しく、ローマの機能を麻痺させていた。多くの有能な元老院議員が殺され、あるいは追放されたことで、元老院は、もはや国家の重要事を決定する能力を失い、ただ沈黙を守るだけの、抜け殻と化していた。
そして、市民たちは、この長期化する戦いに、疲れ果てていた。
彼らは、カエサルの復讐という大義名分よりも、日々のパンと、平和な暮らしを、何よりも求めている。
私は、これらの問題の報告書を眺めながら、もう一つの、そして最も重要な事実を見抜いていた。
ローマの留守を預かる最高責任者、三頭政治の一角であるはずの、マルクス・アエミリウス・レピドゥスが、これらの問題に対し、全く有効な手を打てていない、という事実を。
彼は、名門貴族としてのプライドは高いが、実務能力に乏しい。
食糧問題にも、元老院の機能不全にも、市民の不満にも、彼は、ただ右往左往するだけで、その権威を、日に日に低下させていた。
私は、思考を巡らせた。
この状況は、危機であると同時に、好機でもある。
この市民の不満と、レピドゥスの無能さを、最大限に利用する。
そして、遠い戦場にいる、我が主君オクタウィアヌスの、このローマにおける、絶対的な支持を確立するのだ。
私は、一枚の羊皮紙を取り寄せると、筆を走らせ始めた。
それは、レビルス殿たち、旧世代の巨人たちが、私に教えてくれた、「静かなる戦争」の、始まりを告げる、緻密な政治戦略の、第一稿だった。
剣や槍ではなく、情報と、プロパガンダと、そして人心の掌握によって、このローマを、内側から、完全に、我が主君の色へと染め上げるための、壮大な設計図。
戦場は、東方のフィリッピだけではない。
このローマもまた、もう一つの、そして、未来を決する、重要な戦場なのだ。そして、その戦いを指揮するのは、この私、ガイウス・マエケナスしかいない。
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