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建国記異聞  作者: 奪胎院
第四部

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35/60

第一章:血と祝宴

第一幕:恐怖に沈むローマ

紀元前43年の冬。俺たちの手で解放したはずのローマは、かつてないほどの、冷たく、そして湿った恐怖に沈んでいた。


第二次三頭政治が成立し、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの三人がローマを支配して以来、この都は、巨大な屠殺場へと姿を変えてしまった。


プロスクリプティオ。


国家の敵を宣告する、死のリスト。


その羊皮紙がフォルムに張り出された日から、ローマは、断末魔の叫びと、兵士たちの無慈悲な軍靴の音に支配された。


俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、パラティヌスの丘に与えられた壮麗な邸宅から、その光景を、ただ無力に見下ろすことしかできなかった。


密告が奨励され、隣人が隣人を売り、息子が父を売る。


長年の友情も、血の繋がりさえも、恐怖と、敵の財産を分け与えられるという卑しい欲望の前では、何の価値も持たなかった。


信頼という、人間社会を成り立たせる最も基本的な絆が、俺たちが作り出した新しい権力の手によって、いとも容易く断ち切られていく。


これが、我々が望んだローマの姿だったのか。


自問するたびに、胸の奥が、冷たい刃で抉られるような痛みに苛まれる。


旧世代の巨人たちは、この国を我々に託した。


憎悪の連鎖を断ち切り、真の平和を築くために。


だが、我々が今、為していることは、その理想とはあまりにもかけ離れた、野蛮な殺戮に過ぎないのではないか。


リストの最上段に記された男、マルクス・トゥッリウス・キケロ。


彼の首と右手が、フォルムの演壇に無残に晒されたと聞いた時も、俺は、何も感じることができなかった。


いや、感じることを、自ら拒絶したのだ。


これは、新しいローマを建国するための、「必要悪」なのだ。


カエサルは、その寛容さゆえに、許すべきでない者まで許し、そして裏切られた。


その過ちを繰り返さないために、我々は、この国に巣食う、旧い秩序の亡霊たちを、完全に、そして根絶やしにする必要がある。


そして、資金。


粛清によって没収された彼らの莫大な財産は、東方に陣取るブルトゥスたちを討伐するための、唯一の軍資金となる。


この血塗られた金がなければ、我々は、カエサルの暗殺者たちを討つことすらできないのだ。


俺は、自らの心を殺し、この惨状を、ただの「計算」の結果として受け入れる。


感傷に浸ることは、許されない。これは、俺たちが選んだ道なのだから。



第二幕:政略結婚

粛清の嵐が吹き荒れる、まさにその最中。


俺は、オクタウィアヌスから、一つの命令を受けた。


「アグリッパ。君に、結婚してもらいたい」


執務室で、彼は、何の感情も浮かべない、いつもの冷徹な表情で、そう告げた。


相手は、カエキリア・アッティカ。


騎士階級エクイテスの中で、最も裕福で、最も影響力を持つ男、ティトゥス・ポンポニウス・アッティクスの、一人娘だった。


俺は、その命令の意味を、瞬時に理解した。


これは、純粋な、政略結婚だ。


ブルトゥスたちとの最終決戦には、国家の財産を全て注ぎ込んでも、まだ足りないほどの、莫大な戦費が必要となる。


その資金を確保するためには、元老院議員たちとは比較にならぬほどの富を蓄え、ローマ経済の実権を握る、騎士階級の全面的な支持が、絶対に不可欠だった。


その騎士階級の頂点に立つアッティクスと、オクタウィアヌスの「剣」である俺が、婚姻によって固い縁戚関係を結ぶ。


これ以上の、分かりやすい同盟の証はない。


「…承知した」


俺は、ただ短く、そう答えることしかできなかった。


俺の意志など、そこには存在しない。


これは、国家のための、新しいローマを建国するための、一つの駒としての、俺の役割なのだ。


数日後、俺とカエキリアの祝宴が、アッティクスの壮麗な邸宅で、盛大に執り行われた。


ローマ中が血の恐怖に沈む中で、その一角だけが、まるで別世界のように、煌びやかな光と、喧騒に包まれていた。


俺の隣で、花嫁となったカエキリアが、静かに微笑んでいる。


彼女は、聡明な女性だった。


この結婚が、愛ではなく、政治によって結ばれたものであることを、彼女もまた、十分に理解しているはずだ。


それでも、彼女は、妻としての役割を、完璧に演じきっていた。


次々と、騎士階級の有力者たちが、祝いの言葉を述べにやってくる。


彼らの顔には、三頭政治の最高権力者の一人と縁戚関係を結べたことへの、あからさまな満足感と、計算高さが浮かんでいた。


俺は、彼らの差し出す杯を、ただ機械的に呷りながら、言いようのない虚しさを感じていた。


ローマでは、今この瞬間も、誰かが殺され、その家族が路頭に迷っているというのに。


俺は、その血の代償として得られた富に囲まれ、見ず知らずの女を妻とし、見ず知らずの男たちと、空虚な祝杯を交わしている。


これが、勝利の味なのか。


これが、ローマを救うということなのか。


俺には、もう、何も分からなかった。


第三幕:血の代償

祝宴の喧騒を抜け出し、俺は、邸宅のバルコニーで、一人、冷たい夜風に当たっていた。


遠くで聞こえる、兵士たちの巡回の声が、この祝宴の異常さを、俺に改めて突きつけてくる。


「…アグリッパ」


静かな声に振り返ると、そこに、オクタウィアヌスが立っていた。


彼もまた、この祝宴の主賓の一人だった。


二人きりになった、その空間で、俺は、ずっと胸の内に溜め込んでいた、葛藤を、吐き出さずにはいられなかった。


「オクタウィアヌス。俺は、もう分からない。我々が作ろうとしているのは、本当に、このような世界なのか? キケロを殺し、多くの元老院議員を殺し、その血の代償として得た金で、政略結婚の祝杯を挙げる。これが、レビルス殿たちが、そしてカエサル閣下が、我々に託したかった、ローマの姿なのか?」


俺は、友の、そして我が主君の瞳を、真っ直ぐに見つめた。


その答えを、俺は何よりも求めていた。


オクタウィアヌスは、俺の問いを、静かに受け止めていた。


彼の瞳は、揺るぎなく、そして、その奥には、俺と同じ、深い痛みの色が浮かんでいるように見えた。


やがて彼は、静かに、しかし、その一言一言に、絶対的な覚悟を込めて、答えた。


「これは、我々が支払わねばならない、代償だ」


彼の声は、氷のように冷たかったが、その奥には、確かな熱があった。


「アグリッパ。この百年間、ローマは、内乱の血を流し続けてきた。その憎悪の連鎖を、どこかで、誰かが、断ち切らねばならない。父は、それを『寛容』で成し遂げようとして、失敗した。ならば、我々は、違う方法で、それを成し遂げるしかない。この粛清は、そのための、最後の処置だ。この国を蝕む、旧い病巣を、完全に、そして根こそぎ、えぐり出す。そのために流される血の、その全ての罪は、この私が背負う」


彼は、俺に向き直った。


その瞳には、もはや十八歳の若者の姿はなく、ローマの全ての罪と未来を、その一身に背負う覚悟を決めた、支配者の光が宿っていた。


「だから、君は、君の役割を果たしてくれ、アグリッパ。君のその剣で、この後に生まれる、新しいローマを、守ってくれ。我々が流すこの血を、決して無駄にしないために」


俺は、何も言い返せなかった。


そうだ。


俺は、軍人だ。俺にできることは、ただ一つ。友が背負うと決めた、その途方もない重荷を、信じ、そして、その剣となることだけだ。


俺が、黙って、力強く頷いた、まさにその時だった。一人の伝令兵が、慌ただしくバルコニーへと駆け込んできたのは。


「申し上げます! 東方から、急報です!」


伝令兵が差し出した羊皮紙を、オクタウィアヌスが受け取る。


その内容に目を通した彼の顔から、わずかに残っていた人間的な感情が、すっと消え失せた。


彼は、絶対零度の支配者の顔で、俺と、そして伝令兵に告げた。


「ブルトゥスとカッシウスが、シリアとマケドニアで組織した軍団の規模が、確定した。総勢、二十個軍団を超える。我々の想定を上回る、大軍だ」


東方で、ついに最後の敵が、その牙を剥いたのだ。


オクタウィアヌスは、血の匂いがするローマの夜景を見据え、静かに、そして、そこにいる全ての者に聞こえる、明瞭な声で言った。


「三頭政治軍の、全軍団に通達。東方への、遠征準備を開始する」


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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