第七章:血の署名
第一幕:帰還
地獄のような三日間の空白が終わった。
川の中州から、友が、そして我が主君が、オクタウィアヌスが帰ってくる。
俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、レビルス殿と共に、岸辺でその小舟が着くのを、固唾を飲んで見守っていた。
遠目にも、彼の疲労は明らかだった。
三日三晩、眠らず、食もろくに取らずに、ローマの未来を賭けた交渉を続けたのだ。
当然だろう。
だが、舟から降り立ち、俺たちの前に立った彼の姿に、俺は言いようのない違和感を覚えた。
その表情は、確かに疲れ切っている。
しかし、その瞳の奥に宿っている光は、疲労とは全く質の異なる、氷のように冷たく、そして一切の感情を拒絶するような、非人間的な光だった。
まるで、あの島で、彼は人間としての何かを捨ててきたかのようだった。
彼は、俺とレビルス殿の顔を一度だけ見やると、何も言わずに司令部の天幕へと歩き始めた。
俺たちも、無言でその後に続く。
天幕の中に入ると、オクタウィアヌスは、広げられた地図の前に立つと、まるで他人事のように、会談の「結果」だけを、淡々と告げ始めた。
「第二次三頭政治が、成立した」
その一言に、俺の胸は高鳴った。
やったのか。
あの猛将アントニウスと、老獪なレピドゥスを相手に、対等な同盟を成立させたというのか。
「国家再建三人委員として、我々三人が、今後五年間、国家の全権を担う。属州は三分割し、アントニウスがガリアを、レピドゥスがヒスパニアを、そして我々はアフリカ、シチリア、サルディニアを得る。軍団の再編も、こちらの要求通りに進めることで合意した」
条件も、悪くない。いや、望外の結果だ。
「そして…」
オクタウィアヌスは、そこで一度、言葉を切った。その一瞬の沈黙が、俺の背筋に、冷たい悪寒を走らせた。
「プロスクリプティオを、実行する」
プロスクリプティオ。
その言葉の意味が、俺の頭の中で反響する。
国家の敵を宣言し、その財産を没収し、そして、その首を狩ることを、法の名の下に許可する、国家による大粛清。
かつて、スッラがこのローマを血の海に沈めた、あの忌まわしい記憶。
「……粛清、だと?」
俺は、思わず声を上げていた。
「なぜだ! 我々は、法による統治を誓ったはずだ! 父カエサルの寛容さこそが、我々の大義ではなかったのか!」
だが、オクタウィアヌスは、俺の問いには答えなかった。
彼は、ただ冷たい目で俺を一瞥すると、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、机の上に、広げた。
第二幕:粛清のリスト
それは、血の署名が記された、死のリストだった。
プロスクリプティオの対象となる、数百人のローマ人の名が、そこには記されていた。
元老院議員、騎士階級の富豪、そして、カエサル暗殺に関与した、全ての者たち。
アグリッパ殿が、息を呑むのが分かった。
彼の視線は、リストの最上段に書かれた、一つの名前に釘付けになっている。
マルクス・トゥッリウス・キケロ。
その名は、アントニウスの、荒々しい筆跡で書かれていた。
ローマ最高の知性と謳われ、その弁舌で国家を動かしてきた、旧世代最後の巨人。
その男の命が、今、この一枚の羊皮紙の上で、無慈悲に断罪されていた。
私は、そのリストを、何の感情も動かさずに、ただ冷静に見つめていた。
アグリッパ殿のような、若く、純粋な魂には、この決定はあまりにも残酷に映るだろう。
だが、私には、この一枚の紙が持つ、冷徹な意味が、痛いほどに理解できた。
これは、憎悪による復讐ではない。
国家を再建するための、必要悪だ。
カエサル閣下の暗殺者たち、そして、その残党である元老院の旧守派を、完全に、そして根絶やしにする。
彼らの息の根を完全に止めない限り、このローマに、真の平和は訪れない。
そして、もう一つの目的。資金だ。
東方に陣取る、ブルトゥスとカッシウス。
彼らを討伐するためには、莫大な戦費が必要となる。
粛清によって没収される彼らの財産は、そのための、最も確実で、そして血塗られた軍資金となるのだ。
リストには、アントニウスが、自らの叔父の名を記すことにも、同意した痕跡があった。
おそらく、キケロの命と引き換えに。
彼ら三人は、互いの血縁さえも取引の材料として、この恐るべき合意に達したのだ。
これが、政治か。
これが、国家を創るということか。
カエサル閣下が歩もうとし、そして、その寛容さゆゆえに果たせなかった、非情の道。
その道を、この若き後継者は、深い傷を負いながらも、ついに歩む覚悟を決めたのだ。
第三幕:旧世代の最後の言葉
私は、疲れ切った表情で椅子に座る、若き主君オクタウィアヌス殿の顔を見つめた。
彼の魂は、この三日間で、深く傷ついたに違いない。
だが、彼は、その痛みを微塵も表に出さず、ただ静かに、ローマの未来を見据えている。
その覚悟は、もはや私が何かを教えるまでもない、完成されたものだった。
「…あなたの決断は、この状況において最善のものであり、素晴らしいものです」
私は、静かに頭を下げた。
「これで、私の役目は、終わりました」
その言葉に、アグリッパ殿が、はっとしたように私を見た。
私は、彼に向き直ると、その若く、力強い肩に、そっと手を置いた。
「アグリッパ殿。これからは、あなたが、彼の『剣』だ。決して、その剣を、折らせてはならない。そして、決して、道を違えるな」
それは、旧世代から、新世代の剣への、最後の、そして唯一の遺言だった。
そして、私は、最後に一つだけ、この若きローマの支配者に、伝えねばならないことがあると感じていた。
「オクタウィアヌス殿」
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「十分にご理解いただいていると思いますが、それでもあえて、最後の言葉として伝えます」
私の声は、静かだったが、その一言一言に、カエサルと共に戦い、そしてその死を見届けた者としての、全ての重みを込めた。
「恐怖で、人を抑え続けることはできません。今回のプロスクリプティオは、国家再建のための、苦渋に満ちたものでなければならない。そして、それは、今回限りとしなければなりません」
私は、一度言葉を切り、そして、旧世代の最後の願いを告げた。
「スッラが行った、前回のプロスクリプティオが、どれほどローマを傷つけ、国民の分断を招き、そして、この長きにわたる内乱の、真の因となったか。そのことを、決して忘れないでいただきたい。あなたの手で、その憎悪の連鎖を、完全に断ち切っていただきたいのです」
国家のためならば、その手を汚すことを、躊躇うな。
だが、その血の味に、決して酔うな。
それこそが、カエサル最高の「頭脳」と呼ばれた男が、新しい時代の支配者に託すことができる、唯一の、そして最後の言葉だった。
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