第六章:ボノニアの会談
第一幕:見えざる重し
紀元前43年10月下旬。ボノニア近郊の平原を流れるレヌス川を挟んで、ローマの未来を決定づける、三つの巨大な軍団が対峙していた。
川の南岸には、我らが主君、執政官オクタウィアヌスが率いる、精強なるカエサル派軍団。
その布陣は、俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパが、持てる知識の全てを注ぎ込んで築き上げた、完璧なものだった。
騎兵の配置、歩兵戦列の厚み、そして予備隊の位置。
いかなる方向からの攻撃にも即応できる、鉄壁の陣形。軍人としての俺の目から見ても、一点の隙もなかった。
だが、俺は知っていた。
この完璧な布陣が、俺一人の力によって生み出されたものではないことを。俺が駒を一つ動かすたび、その背後には、常に彼の存在があった。
ガイウス・セルウィリウス・レビルス。彼は、ローマで後事をオッピウス殿たちに託し、この重要な局面において、再び我々の軍師として、その後方司令部に控えていた。
彼の「計算」は、もはや戦術の域を超えている。
兵士たちの練度、地形の有利不利、そして何よりも、敵将の心理。
その全てを読み解き、この完璧な布陣を、まるで予言のように描き出していたのだ。
俺は、彼の描いた設計図の上で、最も効率的に剣を振るうための、最高の駒の一つに過ぎないのかもしれない。
その事実は、軍人としての俺の誇りをわずかに傷つけはしたが、それ以上に、勝利への絶対的な確信を、俺に与えてくれていた。
この、見えざる重し。
俺たちの背後にある、カエサル最高の「頭脳」の存在。
それは、川の対岸に陣取る、あの男にも、確かに伝わっているはずだった。
北岸に展開するのは、マルクス・アントニウスとマルクス・アエミリウス・レピドゥスの連合軍。
その軍勢は、数において我々を上回っていた。
特に、アントニウスが率いる兵士たちは、ムティナでの敗戦の屈辱を晴らさんと、凄まじい闘気を放っている。
だが、アントニウスは、動かなかった。
歴戦の猛将である彼が、眼前にいる若造の軍団を、なぜ攻めあぐねているのか。
それは、彼が対峙している相手が、オクタウィアヌスという十八歳の若者だけではないことを、骨の髄まで理解しているからに他ならない。
ムティナでの、あの悪夢のような敗北。
彼の勇猛さを、完全に読み切り、その側面を完璧なタイミングで打ち砕いた、あの冷徹なまでの戦術。
あれは、レビルスの仕業だ。
アントニウスは、確信しているはずだ。
そして今、そのレビルスが、再びオクタウィアヌスの背後に控え、この戦場の全てを支配しているのだ、と。
ここで戦うのは、あまりにもリスクが高すぎる。
たとえ勝利したとしても、自軍もまた、壊滅的な打撃を被るだろう。
そしてその隙を、東方で軍を再編しているブルトゥスたちに突かれることになれば、それこそが最悪の結末だ。
アントニウスは、猛将であると同時に、現実的な計算もできる男だ。
彼は、この戦いが、もはや剣と槍だけで決するものではないことを、悟ったのだ。
彼は、交渉のテーブルに着くことを、決意した。
数日後、アントニウスの陣営から、会談を申し入れるという、一本の矢文が、我々の陣営へと放たれた。
第二幕:三日間の空白
会談の場所として選ばれたのは、レヌス川の中州。
両軍のちょうど中間に浮かぶ、小さな、名もない島だった。
そこは、いかなる策略も、奇襲も通用しない、絶対的な中立地帯。
互いの信頼が、何一つ存在しないからこそ、選ばれた場所だった。
オクタウィアヌスは、出発の朝、俺とレビルス殿を呼び出した。
「アグリッパ、レビルス殿。私が不在の間、この軍団の全てを、二人に託す。いかなる挑発にも乗るな。だが、万が一、敵が動いた場合は、躊躇うな」
その瞳には、これから始まる、未知の交渉への緊張と、我々への絶対的な信頼が宿っていた。
「御武運を」と、レビルス殿が静かに頭を下げた。
俺は、ただ無言で、力強く頷いた。
オクタウィアヌスは、護衛もつけず、ただ一人で、小舟に乗って中州へと渡っていく。
対岸からも、同じように、アントニウスとレピドゥスが、それぞれ一人で、島へと上陸した。
ローマ世界の未来を担う三人の男たちが、今、歴史上、最も重要な会談を始めようとしていた。
その瞬間から、俺にとって、地獄のような三日三晩が始まった。
俺は、川岸に築かれた見張り台の上から、ただひたすらに、その小さな中州を、見つめ続けることしかできなかった。
島の上には、簡素な天幕が一つだけ張られている。
その中で、何が語られているのか。激しい怒号が飛び交っているのか。
それとも、冷たい計算が、静かに行われているのか。知る術は、何もない。
時間は、まるで永遠のように、ゆっくりと流れた。
日が昇り、そして沈む。夜になれば、天幕に、かすかな灯りがともる。
その灯りが消えることは、一度もなかった。
彼らは、眠らずに、食もろくに取らずに、ただひたすらに、語り続けているのだ。
ローマの未来を、その三人の肩の上で、作り変えようとしているのだ。
俺は、焦燥感に駆られた。
俺は、軍人だ。戦場で剣を振るうことしか、能がない。
だが、今、ローマの運命が決まろうとしている、
この場所で、俺は、あまりにも無力だった。
レビルス殿の「計算」も、俺の「武勇」も、あの小さな島の上では、何の役にも立たない。
全ては、オクタウィアヌス一人の、その交渉の腕に、その政治の才に、委ねられている。
友よ、お前は、一人で戦っているのだな。
俺は、ただ祈ることしかできなかった。そして、待つことしか。
三日目の夕暮れ。
中州の天幕から、ついに三人の影が現れた。
そして、それぞれの小舟に乗って、自軍の岸辺へと、戻っていく。
遠くて、その表情までは、分からない。
だが、俺には、分かった。
ローマの、そして俺たちの運命が、この三日間で、完全に取り決められたのだということを。
そして、その決定が、良くも悪くも、もはや誰にも覆すことのでない、絶対的なものであるということを。
歴史が、動いた。
その静かで、しかし決定的な瞬間を、俺は、ただ固唾を飲んで、見つめていた。
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