表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
建国記異聞  作者: 奪胎院
第三部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/60

第六章:ボノニアの会談

第一幕:見えざる重し


紀元前43年10月下旬。ボノニア近郊の平原を流れるレヌス川を挟んで、ローマの未来を決定づける、三つの巨大な軍団が対峙していた。


川の南岸には、我らが主君、執政官オクタウィアヌスが率いる、精強なるカエサル派軍団。


その布陣は、俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパが、持てる知識の全てを注ぎ込んで築き上げた、完璧なものだった。


騎兵の配置、歩兵戦列の厚み、そして予備隊の位置。


いかなる方向からの攻撃にも即応できる、鉄壁の陣形。軍人としての俺の目から見ても、一点の隙もなかった。


だが、俺は知っていた。


この完璧な布陣が、俺一人の力によって生み出されたものではないことを。俺が駒を一つ動かすたび、その背後には、常に彼の存在があった。


ガイウス・セルウィリウス・レビルス。彼は、ローマで後事をオッピウス殿たちに託し、この重要な局面において、再び我々の軍師として、その後方司令部に控えていた。


彼の「計算」は、もはや戦術の域を超えている。


兵士たちの練度、地形の有利不利、そして何よりも、敵将の心理。


その全てを読み解き、この完璧な布陣を、まるで予言のように描き出していたのだ。


俺は、彼の描いた設計図の上で、最も効率的に剣を振るうための、最高の駒の一つに過ぎないのかもしれない。


その事実は、軍人としての俺の誇りをわずかに傷つけはしたが、それ以上に、勝利への絶対的な確信を、俺に与えてくれていた。


この、見えざる重し。


俺たちの背後にある、カエサル最高の「頭脳」の存在。


それは、川の対岸に陣取る、あの男にも、確かに伝わっているはずだった。


北岸に展開するのは、マルクス・アントニウスとマルクス・アエミリウス・レピドゥスの連合軍。


その軍勢は、数において我々を上回っていた。


特に、アントニウスが率いる兵士たちは、ムティナでの敗戦の屈辱を晴らさんと、凄まじい闘気を放っている。


だが、アントニウスは、動かなかった。


歴戦の猛将である彼が、眼前にいる若造の軍団を、なぜ攻めあぐねているのか。


それは、彼が対峙している相手が、オクタウィアヌスという十八歳の若者だけではないことを、骨の髄まで理解しているからに他ならない。


ムティナでの、あの悪夢のような敗北。


彼の勇猛さを、完全に読み切り、その側面を完璧なタイミングで打ち砕いた、あの冷徹なまでの戦術。


あれは、レビルスの仕業だ。


アントニウスは、確信しているはずだ。


そして今、そのレビルスが、再びオクタウィアヌスの背後に控え、この戦場の全てを支配しているのだ、と。


ここで戦うのは、あまりにもリスクが高すぎる。


たとえ勝利したとしても、自軍もまた、壊滅的な打撃を被るだろう。


そしてその隙を、東方で軍を再編しているブルトゥスたちに突かれることになれば、それこそが最悪の結末だ。


アントニウスは、猛将であると同時に、現実的な計算もできる男だ。


彼は、この戦いが、もはや剣と槍だけで決するものではないことを、悟ったのだ。


彼は、交渉のテーブルに着くことを、決意した。


数日後、アントニウスの陣営から、会談を申し入れるという、一本の矢文が、我々の陣営へと放たれた。



第二幕:三日間の空白

会談の場所として選ばれたのは、レヌス川の中州。


両軍のちょうど中間に浮かぶ、小さな、名もない島だった。


そこは、いかなる策略も、奇襲も通用しない、絶対的な中立地帯。


互いの信頼が、何一つ存在しないからこそ、選ばれた場所だった。


オクタウィアヌスは、出発の朝、俺とレビルス殿を呼び出した。


「アグリッパ、レビルス殿。私が不在の間、この軍団の全てを、二人に託す。いかなる挑発にも乗るな。だが、万が一、敵が動いた場合は、躊躇うな」


その瞳には、これから始まる、未知の交渉への緊張と、我々への絶対的な信頼が宿っていた。


「御武運を」と、レビルス殿が静かに頭を下げた。


俺は、ただ無言で、力強く頷いた。


オクタウィアヌスは、護衛もつけず、ただ一人で、小舟に乗って中州へと渡っていく。


対岸からも、同じように、アントニウスとレピドゥスが、それぞれ一人で、島へと上陸した。


ローマ世界の未来を担う三人の男たちが、今、歴史上、最も重要な会談を始めようとしていた。


その瞬間から、俺にとって、地獄のような三日三晩が始まった。


俺は、川岸に築かれた見張り台の上から、ただひたすらに、その小さな中州を、見つめ続けることしかできなかった。


島の上には、簡素な天幕が一つだけ張られている。


その中で、何が語られているのか。激しい怒号が飛び交っているのか。


それとも、冷たい計算が、静かに行われているのか。知る術は、何もない。


時間は、まるで永遠のように、ゆっくりと流れた。


日が昇り、そして沈む。夜になれば、天幕に、かすかな灯りがともる。


その灯りが消えることは、一度もなかった。


彼らは、眠らずに、食もろくに取らずに、ただひたすらに、語り続けているのだ。


ローマの未来を、その三人の肩の上で、作り変えようとしているのだ。


俺は、焦燥感に駆られた。


俺は、軍人だ。戦場で剣を振るうことしか、能がない。


だが、今、ローマの運命が決まろうとしている、


この場所で、俺は、あまりにも無力だった。


レビルス殿の「計算」も、俺の「武勇」も、あの小さな島の上では、何の役にも立たない。


全ては、オクタウィアヌス一人の、その交渉の腕に、その政治の才に、委ねられている。


友よ、お前は、一人で戦っているのだな。


俺は、ただ祈ることしかできなかった。そして、待つことしか。



三日目の夕暮れ。

中州の天幕から、ついに三人の影が現れた。


そして、それぞれの小舟に乗って、自軍の岸辺へと、戻っていく。


遠くて、その表情までは、分からない。


だが、俺には、分かった。


ローマの、そして俺たちの運命が、この三日間で、完全に取り決められたのだということを。

そして、その決定が、良くも悪くも、もはや誰にも覆すことのでない、絶対的なものであるということを。


歴史が、動いた。


その静かで、しかし決定的な瞬間を、俺は、ただ固唾を飲んで、見つめていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ