第四章:無血開城
ムティナの陣営へ、「ローマへ進軍を」という急使を送ってから数日。
私、ガイウス・マエケナスが身を置くローマは、静かなパニックの渦中にあった。
どこからともなく流れ始めた噂は、日増しに真実味を帯び、今や無視できない巨大なうねりとなっていた。
「オクタウィアヌスが、八個軍団を率いて、ローマへ向かっている」と。
フォルムに集う人々は、不安げに囁き合い、元老院の議場からは、連日、ヒステリックな怒号が漏れ聞こえてくる。
その混乱の中心にいるのは、かつてローマ最高の知性と謳われた、マルクス・トゥッリウス・キケロだった。
オッピウス殿の邸宅の一室。
窓の外の喧騒とは裏腹に、室内は冷徹なまでの静寂に包まれていた。
私と、オッピウス殿、バルブス殿の三人は、オッピウスの情報網が次々ともたらす、キケロの動向に関する報告書を、静かに分析していた。
「……滑稽ですな」
バルブス殿が、その薄い唇に、冷たい笑みを浮かべた。
「キケロ殿は、今だに元老院の権威が通用すると信じているらしい。アフリカやマケドニアから、元老院に従う軍団を呼び戻そうと、躍起になっているとか」
オッピウス殿が、その報告に、静かに首を横に振った。
「間に合うはずもない。それに、仮に間に合ったとして、彼らがオクタウィアヌス様と戦うと、本気で思っているのでしょうか。あの老人は、もはや現実が見えていない」
そして、オッピウス殿は、次の報告書を私の前に差し出した。
その内容に、私は思わず眉をひそめた。
「……これは、驚きました。キケロは今、かつて『国家の敵』と罵っていたアントニウスに使者を送り、和解を持ちかけている、と?」
「その通り」と、オッピウス殿は頷いた。
「アントニウスをローマに呼び戻し、オクタウィアヌス様にぶつけようという、最後の悪あがきです。自分たちが命がけで戦った相手と手を組んででも、カエサルの後継者を排除したい。その一心なのでしょう。もはや、見苦しいとしか言いようがありませぬな」
私は、その報告書から目を上げた。キケロの動きは、滑稽であり、見苦しい。
だが、それだけではない。
私は、その奥にある、もっと深い時代の断絶を感じていた。
キケロは、間違っているのではない。ただ、彼の時代が、終わったのだ。
弁舌と元老院の権威が全てを支配した時代は、カエサルの死と共に終わりを告げた。
そして今、ローマを動かしているのは、軍団の力と、それを掌握する者の意志。
その単純で、暴力的な現実を、彼は受け入れられないでいるのだ。
その時、外から新たな伝令が駆け込んできた。
「申し上げます! アッピア街道を北上してきたオクタウィアヌス様の軍団が、ローマの城壁を視界に捉えました!」
元老院は、最後の最後まで虚勢を張り続けたが、城門の前まで迫った八個軍団の威容を前に、ついに白旗を掲げた。
抵抗は、なかった。
戦闘も、なかった。
一滴の血も、流れなかった。
ローマの城門は、まるで久方ぶりに帰還した主を迎えるかのように、静かに開かれた。
そして、その門を、オクタウィアヌスが率いる軍団が、整然と、しかし圧倒的な威圧感を放ちながら、進んでいく。
私は、パラティヌスの丘から、その光景を眺めていた。
眼下に広がる、ローマの街並み。その中心を、堂々と進んでいく、我が主君の軍団。
その光景は、美しくさえあった。
だが、私の胸を満たしたのは、勝利の昂揚だけではなかった。
それは、畏怖と、そして魂の芯が凍るような、静かな戦慄だった。
(……ああ。我々は、とんでもないものを、この世に解き放ってしまったのかもしれない)
私の脳裏に、かつてカエサルが、ただ一つの軍団を率いて、ルビコン川の畔で思い悩んだという、故事が浮かんでいた。
あのカエサルは、知っていたのだ。
ローマに軍を率いて入ることが、どのような意味を持つのかを。
それが、共和国の法と秩序を、根底から覆す、決して後戻りのできない一線であることを、彼は深く理解していた。
だからこそ、彼は躊躇した。
だが、我が主君、オクタウィアヌスは、躊躇わなかった。
彼は、十八歳の若さで、カエサルでさえ躊躇した「ローマへの武力進駐」を、何の迷いもなく、そして、いとも容易く成し遂げてしまったのだ。
そこには、激情も、野心も、そして躊躇いもなかった。
ただ、目的を達成するための、冷徹で、完璧な計算があるだけだった。
彼のその冷徹さこそが、我々が彼に賭けた理由だった。
だが、その冷徹さが、今、現実の光景として目の前に広がった時、私は、改めてその底知れなさに、戦慄を覚えずにはいられなかった。
カエサルは、太陽だった。
その圧倒的な輝きで、良くも悪くも、全てを照らし、焼き尽くした。
だが、オクタウィアヌスは、違う。彼は、月だ。
自らは輝かず、ただ静かに、冷たい光で、盤上の全てを支配する。
その静けさこそが、カエサルにはなかった、彼の本当の恐ろしさなのかもしれない。
隣に立つオッピウス殿とバルブス殿も、同じ思いでいるようだった。
彼らの顔には、長年の宿願が達成された満足感と共に、これから始まる、未知の時代への、静かな畏怖が浮かんでいた。
我々は、一人の若者を、ローマの新たな主人として、この都に迎え入れた。
そして、その選択が、ローマの、そして我々自身の運命を、どのように変えていくのか。その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
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