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建国記異聞  作者: 奪胎院
第三部

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第二章:見捨てられた駒


第一幕:栄光の頂点

元老院からの使者がもたらした指令書を、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスは、万感の思いを込めて握りしめていた。


ムティナの包囲を耐え抜き、今やローマの英雄として称賛される彼に、元老院はイタリアにおける全軍団の指揮権を委ねる、と。


それは、彼の人生における、最高の栄誉の瞬間であった。


情よりも、ローマ共和国への忠誠を選んだ、苦渋の決断。


そして今、その決断が、元老院によって、ローマ最高の栄誉という形で認められたのだ。


「全軍に通達せよ! 我々は、元老院の正式な命令に基づき、国家の敵マルクス・アントニウスの追撃を開始する! オクタウィアヌスの軍団も、速やかに我々の指揮下に入り、追撃に加わるはずだ!」


デキムスは、自信に満ちた声で命令を下した。


彼は、もはや疑うことを知らなかった。十八歳の若造が、ローマ元老院の決定に逆らえるはずがない。


イタリア最強の軍団が、今や自分の手駒となったのだ。


アントニウスの首を獲り、ローマに真の平和を取り戻す。


その輝かしい未来を、彼は信じて疑わなかった。



第二幕:静かなる解体

同じ頃、ムティナのオクタウィアヌス軍陣営。司令部の天幕の中は、北イタリアの地図を前にした、三人の男たちの静かな緊張感に満ちていた。


オクタウィアヌス、アグリッパ、そして私、ガイウス・セルウィリウス・レビルス。


「……デキムス・ブルトゥスが、アントニウスの追撃を開始した、か」


アグリッパ殿が、忌々しげに吐き捨てた。


「元老院の威光を笠に着て、いい気なものだ。我々の軍団を、自分の手柄のために使うつもりだろう」


その若々しい怒りを、私は静かに受け止めた。


そして、ゆっくりと口を開く。


「その必要はありません。彼の軍団は、間もなく自壊します。私が、そうなるように仕掛けますので」


私の言葉に、オクタウィアヌス殿とアグリッパ殿が、鋭い視線を向けてきた。


私の表情には、何の感情も浮かんでいない。


いつも通りの、冷徹な計算屋の顔。だが、その仮面の下で、私の腹の底では、カエサル閣下を裏切った男への、氷のように冷たい怒りが、静かに燃え盛っていた。


私は、地図の上に駒を一つ置いた。


それは、ボルクやセクンドゥスのような、兵士たちの心を掴む術に長けた、我々の手の者たちを意味していた。


「すでに、何人かの者を、デキムスの軍団へ潜入させてあります」


私は、淡々と計画を説明し始めた。


それは、感情を一切排した、ただの作業報告のようだった。


「彼らに、デキムスの兵たちの間で、二つのことを囁かせます。一つは『実利』。


オクタウィアヌス様の下へ来れば、カエサル閣下の遺言通りの、正当な恩賞が約束される、と。もう一つは、彼らの『誇り』に訴えかける言葉です」


私は、そこで一度言葉を切り、二人の若者の目を見据えた。


「『カエサルの兵士が、なぜカエサルの暗殺者の下で戦うのか』と。恐怖で縛るのではない。彼らが最も大切にする、カエサルの兵士としての誇りに、静かに問いかけるのです」


私の声は、淡々としていた。

だが、その言葉の裏には、デキムス・ブルトゥスという男への、一切の情け容赦もない、冷徹な殺意が込められていた。


カエサル閣下は、あの男を誰よりも信頼していた。


ガリアでも、内乱でも、常に傍らに置き、重用していた。


その信頼を、あの男は、最も卑劣な形で裏切ったのだ。


その罪は、決して許されるものではない。武力で正面から叩き潰すなど、生ぬるい。


やつには、自分が信じる全てのものが、足元から音もなく崩れ去っていくという、最も残酷な絶望を味わわせてやらねばならない。


私の計画を聞き終えたオクタウィアヌス殿は、何も言わなかった。


ただ、その瞳の奥に、私と同じ、冷たい光を宿していた。


第三幕:崩壊と最期

デキムスの輝かしい未来が、砂上の楼閣に過ぎなかったことを、彼はすぐに思い知らされることになる。


追撃を開始して数日が経った頃から、彼の軍団に、奇妙な動揺が走り始めた。


兵士たちが、遠巻きに、不安げな視線を交わしている。


そして、ある朝、最初の脱走兵が出た。それを皮切りに、まるで堰を切ったように、兵士たちが次々と彼の陣営から姿を消していったのだ。


「どういうことだ! なぜ兵が逃げる!」


デキムスは、腹心の百人隊長を問い詰めた。


百人隊長は、答えにくそうに、しかし事実を告げた。


「…閣下。兵たちの間に、奇妙な噂が広まっております。オクタウィアヌス様が、元老院の命令を拒否した、というだけでなく…」


百人隊長は、声を潜めた。


「夜になると、どこからともなく現れた男たちが、兵たちの間で囁いて回っている、と…。彼らはオクタウィアヌス様の下へ行けば、カエサル閣下の遺言通りの恩賞が約束されること、そして何より、我々が仕えているのが誰であるかを、改めて兵たちに思い出させているのです。『カエサルの兵士が、カエサルの暗殺者の下で戦うのか』と…」


その言葉は、デキムスの胸に、冷たい刃のように突き刺さった。


彼は、忘れていたのだ。兵士たちの忠誠が、元老院という抽象的な権威ではなく、カエサルという一人の人間への熱狂的な情によって支えられているという事実を。


そして、その情を、かつての戦友であったはずの男が、意図的に、そして冷徹に利用しているという、恐るべき現実を。


オクタウィアヌスが動かない。その背後で、レビルスが糸を引いている。


その事実が、デキムスが持つ全ての権威を、根底から覆してしまった。


彼は、盤上の駒として、あまりにも無力だった。


軍事力を完全に失ったデキムスに残された道は、もはや逃亡しかなかった。


彼は、信頼できる数人の供だけを連れ、マケドニアにいる同志ブルトゥスの元へと落ち延びようとした。


だが、運命は、彼に安息の地を与えるほど、甘くはなかった。


逃亡の道中、彼は、ガリア人の首長に捕らえられた。


その首長は、かつてカエサルに恩義を受けた男だった。


そして、その男のもとに、一通の密書が届けられていた。マルクス・アントニウスからの、短い命令書だった。


「デキムス・ブルトゥスの首を送れ」と。


かつてローマの英雄と称えられた男の最期は、あまりにも惨めなものだった。


彼は、ガリアの森の奥深くで、名もなき兵士の手によって、何の儀式もなく、ただあっさりと首を刎ねられた。


数日後、その首は、麻袋に入れられ、北イタリアに陣を構えるアントニウスのもとへと、贈り物として届けられた。


袋から転がり出た、泥と血にまみれた首を、アントニウスは、ただ冷たい目で見下ろしていた。


元老院は、その全ての駒を失った。ムティナの戦いで、彼らは自らの「剣」であった二人の執政官を失った。


そして今、彼らが最後の希望として指名した指揮官、デキムス・ブルトゥスもまた、無力な死体と成り果てた。


ローマの心臓部は、今や、何の軍事力も持たない、無力な老人たちの集会所と化していた。


そして、その空っぽになった玉座を、進軍してくる巨大な軍靴の音が、ゆっくりと、しかし確実に、踏み潰そうとしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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