第一章:空虚な凱旋
第一幕:将軍の教室
ムティなでの勝利の興奮が、ようやく落ち着きを取り戻し始めた紀元前43年5月。
俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、陣営の中を歩きながら、この勝利がもたらした奇妙な静けさを感じていた。
アントニウスは敗走し、二人の執政官の死によって、俺たちの主君オクタウィアヌスは、今やイタリアにおける唯一無二の軍事指揮権保持者となった。
兵士たちの士気は天を衝くほどに高く、彼らは若き主君を、カエサルの再来として英雄視している。全ては、我々の計算通りに進んだはずだった。
それなのに、俺の胸の内には、勝利の昂揚とは程遠い、言いようのない空虚感が広がっていた。
それは、この勝利があまりにも計算され尽くした、冷徹なものであったからかもしれない。
そんなある日の午後、俺はレビルス殿に司令部の天幕へと呼び出された。
中に入ると、彼は一人、広げられた巨大なムティナ周辺の地図を前に、静かに佇んでいた。
地図の上には、先日の戦いを再現するように、赤と青の駒がびっしりと並べられている。
それは、血と鉄の匂いがまだ残る戦場の、あまりにも静かで、無機質な模型だった。
「来たか、アグリッパ殿」
レビルス殿は、地図から目を離さずに言った。
「あなたに見せておきたいものがある。いや、カエサル閣下が、あなたに教えようとしていたことの、ほんの触りだが」
彼は、一本の指揮棒を手に取ると、地図の上を滑らせた。
「まず、あなたの働きは見事だった。湿地帯からの奇襲は、完璧なタイミングだった。あなたの『鉄槌』がアントニウス軍の側面を砕かなければ、この勝利はなかっただろう。その点は、まず誇るがいい」
その言葉に、俺の胸はわずかに熱くなった。
この男に褒められることは、軍人として最高の栄誉の一つだ。
「だが」と、レビルス殿は続けた。「あの戦いを、もう一度、別の視点から見てみよう。我々の『真の目的』という視点からだ」
彼の指揮棒が指し示したのは、ヒルティウスとパンサ、二人の執政官が率いていた元老院軍の駒だった。
「アグリッパ殿、なぜ私が、執政官たちの軍団を、あのような場所に配置したか、分かるかな?」
その場所は、アントニウス軍の主力が最も攻撃しやすい、平原の中央部だった。俺は、自分の考えを正直に述べた。
「執政官たちが、最も手柄を立てやすい場所だから、では? 彼らは元老院の代表であり、ローマの最高司令官だ。彼らを立てねば、後の統治に支障が出る」
「半分は正解だ。だが、半分は違う」
レビルス殿は、静かに首を横に振った。
「あの場所は、手柄を立てやすいと同時に、最も消耗し、最も危険に晒される場所でもある。アントニウスという猛獣を相手にするには、あまりにも無防備な場所だ」
俺は、息を呑んだ。まさか、と思った。
「そうだ」と、レビルス殿は俺の心を見透かしたように言った。
「私は、最初から計算に入れていた。この戦いで、二人の執政官が生き残る可能性は、極めて低い、と。彼らは勇敢な軍人だ。そして、その勇敢さゆえに、必ず前に出る。そして、アントニウスは、その首を獲ることに、全力を注ぐだろう、と」
天幕の中が、しんと静まり返った。
俺は、目の前にいるこの男の、恐るべき思考の深淵を覗き込んだような気がして、背筋に冷たい汗が流れた。
味方の総大将の死さえも、彼は、戦いの始まる前から、盤上の駒の動きとして、計算し尽くしていたのだ。
「我々の真の勝利条件は、アントニウスを殲滅することではなかった。彼を打ち破り、執政官の軍団を消耗させ、そして我々の軍団が無傷で残ること。それこそが、この戦いにおける、我々の真の目的だった。そして、その目的を達成するために、執政官たちの『名誉の戦死』は、必要不可欠な駒だったのだ」
俺の胸の中にあった空虚感の正体が、今、はっきりと分かった。
これは、軍人としての俺の魂が感じていた、本能的な違和感だったのだ。
俺は、ただ敵を倒すための戦いをしていた。
だが、この男は、ローマの未来を賭けた、巨大な政治の盤上で、駒を動かしていた。人の命さえも、その駒の一つとして。
「覚えておくがいい、アグリッパ殿」
レビルス殿は、俺の肩に、そっと手を置いた。
「これからの戦いは、ただ勇猛なだけでは勝てない。敵の力、味方の欲望、そして国家の制度、その全てを利用し、計算し尽くした者だけが、最後に立っていられる。カエサル閣下があなたに教えようとしていたのは、そのことだ。あなたの天賦の武才を、ローマを統べるための、真の軍略へと昇華させること。それが、残された我々の務めだ」
彼の言葉は、重く、そして深く、俺の魂に刻み込まれた。
俺は、まだ本当の戦いというものを、何も知らなかったのだ。
あの日を境に、レビルス殿による俺への教育は、集中的に続けられた。
それは、単なる戦術の講義ではなかった。
兵站の計算、地形の利用法、兵士たちの心理掌握術、そして何よりも、戦場の外にいる元老院の政治家たちの思考を読むための、政治という名の戦い方。
俺は、乾いた砂が水を吸うように、その全てを吸収していった。知れば知るほど、自分がこれまで、いかに狭い世界で生きていたかを思い知らされた。
第二幕:空虚な凱旋
陣営がにわかに騒がしくなった。
ローマから、元老院の使者が到着したのだ。純白のトーガをまとった数人の男たちが、尊大な態度で馬を降り、オクタウィアヌスの待つ司令部の天幕へと入っていく。
俺も、主君の護衛として、その後に続いた。
ようやく、ローマからの公式な評価が下される。
俺は、レビルス殿の言葉を反芻しながら、元老院が、この戦いの本質をどこまで理解しているのか、冷めた気持ちで見極めようとしていた。
使者の代表である、白髪の元老院議員が、巻物を広げ、その内容を朗々と読み上げ始めた。
だが、その内容は、俺たちの冷めた予測さえも、最も残酷な形で裏切るものだった。
「――元老院は、まず何よりも、祖国のためにその尊い命を捧げた、二人の英雄、執政官アウルス・ヒルティウス殿、およびガイウス・ウィビウス・パンサ殿に対し、最大限の弔意と感謝を表するものである!」
使者の声が、天幕の中に響き渡る。予想通りの、空虚な賛辞だった。
だが、元老院の声明は、俺たちの存在を意図的に無視するかのように、続いた。
「また、アントニウスの暴虐なる包囲から、最後までムティナを守り抜いた、勇敢なる属州総督、デキムス・ブルトゥス殿の功績を、ローマ市民は永遠に忘れることはないであろう! 彼の不屈の精神こそ、真のローマ人の魂の顕れである!」
デキムス・ブルトゥス。
その名を聞いた瞬間、俺の全身の血が、逆流するかのような怒りに沸騰した。
父カエサルの、暗殺犯の一人。我々が最も憎むべき裏切り者。
その男を、元老院は英雄と称賛したのだ。
一方で、オクタウィアヌスと、彼の名を慕って集まった兵士たちの功績については、まるで存在しないかのように、ただの一言も触れられなかった。
そして、その侮辱は、決定的な命令によって、仕上げられた。
「以上の決定に基づき、元老院は、イタリアにおける全軍団の指揮権を、デキムス・ブルトゥス殿に委ねることを、ここに布告する! オクタウィアヌス殿は、速やかに、その指揮権をデキムス殿に引き渡すように!」
天幕の中が、水を打ったように静まり返った。
俺は、ようやく理解した。レビルス殿の言う通りだ。
元老院は、俺たちのことを、アントニウスという危険な獣を狩るための、都合の良い「猟犬」でしかなかったのだ。
そして、その猟犬が用済みになった今、彼らはあっさりとその首輪を外し、自分たちの息のかかった、別の飼い主へと引き渡そうとしている。
いや、それ以下だ。
彼らは、俺たちの主君を、父の暗殺犯の「駒」として使おうとしているのだ。
込み上げてくる怒りで、拳がわなわなと震える。今すぐ、この使者たちの胸倉を掴み、壁に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。
だが、俺の隣に立つオクタウィアヌスは、その最大の侮辱を前にしても、驚くほど静かだった。
彼の横顔には、怒りも、失望も、何の感情も浮かんでいない。
ただ、氷のように冷たい光が、その瞳の奥で、静かに燃えているだけだった。
使者が、勝ち誇ったような顔で、オクタウィアヌスの返答を待っている。
彼らは、十八歳の若者が、元老院という国家最高の権威を前に、黙って従うしかないと信じて疑っていないのだろう。
やがて、オクタウィアヌスは、静かに口を開いた。
「お断りします」
その声は、若さに似合わず、鋼のように強く、そして揺ぎなかった。
「……な、なんだと?」
使者の顔から、尊大な笑みが消えた。
オクタウィアヌスは、ゆっくりと立ち上がると、使者たちを一人一人、見下ろすように見つめた。
「私は、ガイウス・ユリウス・カエサルの息子である。父を殺した暗殺犯の指揮下に、入ることはない」
それは、拒絶だった。元老院の権威に対する、完全で、そして決定的な拒絶。
もはや、交渉の余地はない。この瞬間、俺たちの敵は、敗走したアントニウスから、ローマの心臓部にいる元老院そのものへと、はっきりと変わったのだ。
使者たちが、顔を真っ赤にして何かを叫びながら天幕を出ていくのを、俺は冷たい目で見送っていた。
胸の中にあった空虚感は、いつの間にか消え失せていた。
代わりに、そこにあったのは、これから始まる、本当の戦いに向けた、静かで、そして燃え盛るような怒りの炎だった。
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