第九章:インペリウム
第一幕:元老院の計算
年が明けた紀元前43年1月。
ローマの元老院は、いまだかつてないほどの緊張と熱気に包まれていた。
その中心にいるのは、壇上で朗々と声を張り上げる、老弁論家キケロであった。
「聞きたまえ、元老院諸君! マルクス・アントニウスは、今やローマの法と秩序を脅かす、紛れもなき『国家の敵』である! 我々は、この反逆者を断固として討伐せねばならぬ!」
彼の弾劾演説『ピリッピカ』は、すでに元老院の世論を完全に掌握していた。
議員たちは、アントニウスへの恐怖を怒りへと転換させ、その打倒を叫んでいる。
問題は、誰が、そのための「剣」を振るうのか、という一点にあった。
「その『剣』として、私は若きカエサル、オクタウィアヌス殿を推薦する!」
キケロがその名を口にした瞬間、議場にどよめきが走った。
カエサルの名を継ぐ十八歳の若者。南イタリアで、非合法な私兵を集めている危険な存在。
その彼を、ローマの正規軍の指揮官として認めるというのか。
古参の議員の一人が、懸念の声を上げた。
「キケロ殿、正気か! あの若造に軍団を預けるなど、狼を野に放つようなものだぞ! アントニウスを倒した後、その剣が我々に向かぬと、どうして言える!」
その不安は、元老院の重鎮たちの誰もが抱くものだった。
キケロは、その反応を待っていたかのように、落ち着き払って言葉を返した。
「諸君らの懸念はもっともだ。だからこそ、策がある」
彼は、議場全体を見渡すと、自信に満ちた声で言い放った。
「討伐軍の総指揮は、当年の執政官であるヒルティウス殿とパンサ殿が執る。彼らこそ、元老院が認めた、ローマの最高司令官だ。若造はその下で戦わせればよい。アントニウスという猛獣を狩るための、若く、勢いのある『猟犬』として使えばよいのだ。手綱は、我々と執政官たちが、しっかりと握っておく」
その言葉は、老獪な政治家たちの心を捉えた。
そうだ、それならば問題ない。
アントニウスとオクタウィアヌス、二つの危険な力を互いにぶつけさせ、共倒れになれば、それこそが元老院にとって最高の結末ではないか。
若者の軍事力を利用するだけ利用し、用済みになれば、合法的に切り捨てればいい。
「異議なし!」
「その策、承認する!」
元老院の同意は、かくして取り付けられた。
彼らは、自らの計算が完璧であると信じて疑わなかった。
自分たちが、歴史上、最も危険な賭けに、国家の未来を投じたことに、まだ誰も気づいてはいなかった。
第二幕:意志の継承
元老院の決定は、使者によって、すぐさまローマ郊外に陣を構えるオクタウィアヌスのもとへ届けられた。
昨日まで、彼が率いていた軍団は、ローマの法秩序の外にある、危険な「私兵集団」だった。
だが、元老院からの指令書一枚で、それは一夜にして「ローマの正規軍」となった。
そして、軍団の主であるオクタウィアヌス自身にも、法務官格の正規の軍指揮権が授与された。
その夜、邸宅の一室で、オクタウィアヌス、アグリッパ、そしてマエケナスの三人は、再び三人の老練な後見人たちと、密会していた。
「これで、オクタウィアヌス様の立場は、完全に合法なものとなりましたな」
オッピウスが、満足げに頷いた。
バルブスも、口元に笑みを浮かべている。
「元老院が、自らの権威で、我々に大義名分を与えてくれた。これ以上の追い風はありません」
これで、アントニウスと戦うための全ての準備が整った。
若者たちの顔には、緊張の中にも、未来への希望と高揚が浮かんでいた。
その時まで、広げられた北イタリアの地図を、ただ静かに見つめていたレビルスが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、オクタウィアヌス、アグリッパ、マエケナスの三人を、一人ずつ、確かめるように見つめている。
そして、彼は、静かに、しかし揺るぎない声で告げた。
「このムティナへの戦、私も同行させていただきたい」
その一言に、室内の空気が一変した。
だがそれは、驚きではなかった。純粋な、そして抑えきれないほどの喜色だった。
「本当ですか、レビルス殿!」
オクタウィアヌスが、思わずといった様子で身を乗り出した。
その隣で、アグリッパはすでに拳を握りしめ、その瞳を興奮に輝かせている。
「レビルス殿が来てくださるなら、百人力だ! これで、アントニウスに、本当の戦いというものを教えてやれる!」
カエサルの下で数々の伝説的な勝利を打ち立ててきた、生ける伝説。旧世代最強の「頭脳」であり「野戦指揮官」でもある彼が参陣してくれる。
それは、若者たちにとって、何よりも心強い援軍だった。
レビルスは、その素直な喜びを、静かな笑みで受け止めた。
そして、彼の視線は、真っ直ぐにアグリッパへと注がれた。
「アグリッパ殿。この戦いであなたに、叩き込んでおきたいことがある」
「……私に、ですか?」
レビルスの真剣な眼差しに、アグリッパはごくりと唾を飲み込んだ。
「そうだ。かつてカエサル閣下は、来るべきパルティア大遠征で、あなたを副将として、軍団の指揮を学ばせようとしておられた。その壮大な計画は、閣下の死によって潰えてしまったが…。その意志だけは、私が継がねばならん」
レビルスは、地図の一点を指さした。
そこは、アントニウスが包囲しているという、都市ムティナだった。
「この戦場で、カエサル閣下があなたに教えようとしていたことの、その一端を、私が代わりに教える。敵の力を利用し、地形を味方につけ、最小の犠牲で最大の勝利を掴むための『計算』という名の戦い方を。あなたが持つ天賦の才を、本物の軍略へと昇華させるために」
それは、単なる援軍の申し出ではなかった。
カエサルからレビルスへ、そしてレビルスからアグリッパへと受け継がれる、意志の継承の儀式だった。
アグリッパは、その言葉の重みに、ただ深く、そして力強く頷いた。
若者たちの喜びを見つめながら、レビルスは、その胸の内に、別の決意を秘めていた。
(この初陣だけは、絶対に負けさせるわけにはいかない。この若者たちに、最初の、そして最も重要な勝利を、この手で掴ませてやらねば)
彼は、自らの役割を正確に理解していた。
(だが、いつまでも自分が手を貸していては、この若獅子たちの成長を妨げてしまう。この戦いで、自分が持つ全ての知識と経験を叩き込み、そして、未来を託そう。彼らが、自らの足で、新しいローマを築き上げる、その礎となるために)
ムティナを巡る戦いは、もはや単なる軍事衝突ではない。
カエサルが遺した、二つの世代の才能が、一つの意志となって、新たな時代を切り拓くための、最初の試練となろうとしていた。
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