第八章:ピリッピカ
第一幕:キケロの演説
師走のローマは、骨身に染みるような冷気に包まれていた。
だが、元老院の議場だけは、一人の老人が発する言葉の熱によって、沸騰するかのごとき熱気を帯びていた。
議場の入り口近く、有力者たちが聞き耳を立てる一角で、私、ガイウス・マエケナスは、その熱狂を冷静に観察していた。
眼下の議場で、今まさに歴史が動こうとしている。
その中心にいるのは、一人の弁論家。マルクス・トゥッリウス・キケロ。齢六十二。
ローマ最高の知性と謳われ、その弁舌は国家をも動かすとまで言われる、旧世代最後の巨人だ。
そして今日、その巨人の全ての力が、ただ一人の男を打倒するためだけに使われていた。
マルクス・アントニウス。
カエサルの後継者を自認し、ローマの覇権を握ろうとする猛将。
彼が軍団の掌握に手間取り、あまつさえ独断で北イタリアへ軍を進めたという失策は、この老獪な弁論家に、最高の攻撃機会を与えてしまった。
「聞きたまえ、元老院諸君!」
キケロの声が、大理石の柱に反響する。
その声は老齢を感じさせないほどに力強く、明瞭で、聞く者の魂を直接揺さぶるような響きを持っていた。
「あの男、マルクス・アントニウスが、今どこで何をしているか、諸君はご存じか! ローマ市民の、そして国家の財産を横領し、子飼いの兵士たちにばら撒き、あろうことか、このローマの正規軍団を率いて、同じローマの属州総督を攻撃しようとしているのだ! これは、断じて許されざる反逆行為である!」
彼の言葉の一つ一つが、議員たちの心に突き刺さっていくのが分かった。
元老院は、カエサルの独裁を憎みながらも、その死後、アントニウスの武力を恐れて沈黙を守ってきた。
だが、その恐怖の箍が、今、キケロの言葉によって外されようとしていた。
「彼は言うだろう! 自分はカエサルの暗殺犯を討つのだと! なんという欺瞞か! 彼が本当にカエサルの遺志を継ぐ者であるならば、なぜカエサルの遺言を無視し、市民に支払われるべき遺産を独占するのか! なぜカエサルの後継者である若きオクタウィアヌスを『小僧』と呼び、その正当な権利を認めようとしないのか!」
キケロは、巧みにオクタウィアヌスの名を口にした。
それは、彼がオクタウィアヌスを認めているからではない。
アントニウスを孤立させ、彼を討つための「駒」として、我が主君の名前を利用しているに過ぎない。
その計算高さは、さすがとしか言いようがなかった。
「諸君、目を覚ましたまえ! アントニウスは、第二のカエサルになろうとしているのではない! 彼は、カエサルの威光を笠に着た、ただの暴君、ただの略奪者に過ぎぬ! 彼が目指すのは、法と秩序の破壊であり、ローマを己の欲望を満たすための私有地にすることだ! このローマを、スパルタクスの反乱以来の、未曾有の危機から救うため、我々は今こそ、立ち上がらねばならぬ!」
演説が最高潮に達した時、議場の空気は完全に一つになっていた。
議員たちは、それまでの恐怖を忘れ、キケロが示した「大義」に熱狂し、拳を振り上げていた。
「アントニウスを国家の敵とせよ!」
「討伐軍を編成し、逆賊を討て!」
そうだ。
それでいい。もっと叫べ。
もっと熱狂しろ。
あなた方がそう叫べば叫ぶほど、このローマは、我々が望む方向へと動いていくのだから。
私は、熱狂に包まれる議場を背に、誰にも気づかれぬよう、静かに口元を綻ばせた。
第二幕:静かなる観察者
キケロの演説は、見事だった。人の心を掴み、恐怖を怒りへと転換させ、集団を一つの意志へと導く。
弁論というものの力を、あれほどまでに見せつけられたのは初めてだった。
彼の言葉は、もはや魔法だ。
アントニウスという一個人を、「ローマ共和国」そのものへの反逆者へと仕立て上げ、彼を討伐することに、一点の曇りもない正当性を与えてみせた。
だが、私はその完璧な弁舌の中に、一つの、そして致命的な限界も見抜いていた。
彼は、心の底から信じているのだ。「旧き良き共和国」が、今もまだ存在していると。
貴族と平民が、元老院の指導の下で調和を保ち、法と伝統が何よりも重んじられた、あの理想の時代を取り戻せると。
だからこそ、彼はカエサルを憎み、アントニウスを憎む。
彼らは、その理想を力で破壊する、許されざる例外だと信じている。
しかし、それは幻想だ。
カエサルという太陽が昇った瞬間、ローマは、もはや二度と過去には戻れない場所へと変わってしまったのだ。
マリウスの軍制改革以来、兵士たちはもはや国家ではなく、恩賞を与える個人の将軍に忠誠を誓うようになった。
スッラのプロスクリプティオ(国家の敵の宣言)以来、法は政敵を合法的に抹殺するための道具となった。
そして、カエサルがルビコンを渡ったあの日、共和国の権威は、完全に地に堕ちた。
キケロは、その現実を見ていない。
いや、見ようとしていないのだ。
彼は、自分が信じる理想のローマを守るために、時代遅れの剣を振り回しているに過ぎない。
だが、その時代遅れの剣こそ、今の我々にとって、最も必要としている武器だった。
アントニウスを「国家の敵」と宣言し、彼を討伐するための「公的な大義名分」を我々に与えてくれる。
私兵集団に過ぎなかったオクタウィアヌスの軍団を、ローマの正規軍へと変えるための、最高の口実を、この老人が自ら作り出してくれるのだ。
我々、新世代が為すべきことは、旧世代の巨人が作り出したこの熱狂を利用し、乗りこなし、そして最終的には、その巨人そのものを乗り越えていくことだ。
キケロが夢見る「旧い共和国」ではない。
カエサルが見た夢の先にある、全く新しいローマを、我々はこの手で創り上げる。そのための、最初の一歩が、今、始まろうとしていた。
熱狂の渦が最高潮に達し、アントニウスを国家の敵とする決議案が、満場一致で採択されるのを見届けると、私は静かにその場を離れた。為すべきことは、もう決まっている。
邸宅に戻り、この朗報を待つ我が主君に報告せねばならない。
彼の計算通りに、全てが進んでいることを。そして、旧世代最強の武器が、今、我々のために放たれる準備が整ったことを。
私は、ローマの冷たい夜道を歩きながら、頭の中で報告の言葉を組み立てていた。
それは、簡潔で、そして勝利の確信に満ちた言葉でなければならない。
「オクタウィアヌス様。ご安心ください」
――キケロという最高の矢は、今、我々の手の中にあります。
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