第七章:勝者の計算、敗者の怒り
第一幕:敗者の怒り
屈辱だ。これほどの屈辱を、俺、マルクス・アントニウスが味わったことがあっただろうか。
ガリアの荒野で、ファルサルスの決戦で、数えきれぬほどの死線を越えてきた。
カエサルの下で、常に勝利の美酒を味わってきたこの俺が、戦いもせずに、ただの一度も剣を交えることなく、敵に背中を焼かれたのだ。
ブルンディシウムの陣営に響き渡った凶報――最強と謳われたマルティア軍団と第四軍団が、まるごと姿を消したという事実は、俺の全身を内側から焼き尽くす烈火となった。
あの小僧、オクタウィアヌス。
奴がやったのだ。金で、俺の兵士たちを買いやがった。
カエサルの遺産とかいう汚い紙切れをばら撒き、兵士たちの忠誠心を金で買ったのだ。それ以外に考えられるか。
「兵を集めろ! 全員だ! 今すぐ!」
怒りに任せて怒鳴りつけると、側近たちが慌てて駆けずり回る。
やがて、残された三つの軍団の兵士たちが、不安と疑念の入り混じった表情で、俺の前に整列した。
その顔、その顔、その顔。どいつもこいつも、俺の目をまともに見ようとしない。
その態度が、さらに俺の怒りを煽った。
俺は演台に駆け上がると、眼下の兵士たちを睨みつけた。
今こそ、この俺、マルクス・アントニウスの言葉の力で、奴らの迷いを断ち切ってやらねばならない。
「兵士諸君! 聞け!」
俺の声は、怒りのためにわずかに震えていた。
「君たちの仲間が、敵の甘言に乗り、我々を裏切った! カエサルの名を騙る小僧がばら撒いた金貨に目が眩み、兵士としての誇りを捨てて逃げ出したのだ! 恥を知れ! ローマの兵士たるものが、金のために忠誠を売るとは!」
俺が裏切り者たちを罵倒すると、すぐに力強い反応が返ってきた。
第五軍団アラウダエ。
ガリアで編成され、俺が手足のように鍛え上げてきた、俺の子飼い中の子飼いたちだ。
彼らは剣の柄を盾に打ち付け、地響きのような鬨の声を上げた。
「アントニウス! アントニウス!」
その熱狂的な声援に、俺は一瞬、安堵を覚えた。
そうだ、こいつらこそが俺の兵士だ。俺の本当の力だ。
だが、その歓声は、陣営全体を包み込むにはあまりにも小さかった。
子飼いの兵たちの熱狂とは対照的に、大多数の兵士たちは、ただ黙って俺の言葉を聞いている。
彼らは武器を打ち鳴らすこともなく、かといって反抗的な態度を示すでもなく、ただじっと、俺の次の言葉を、そしてこの状況の行く末を、冷静に見極めようとしていた。
まるで、値踏みをするかのように。
そして、その集団の中に、明らかに冷ややかな視線を向ける一団がいることに、俺は気づいてしまった。
第四軍団とマルティア軍団の残留兵たちだ。
彼らの瞳には、失望と不信の色が浮かんでいる。彼らの心は、もはやここにはない。
歓声と、沈黙と、そして冷笑。
三つに分かれた兵士たちの反応が、俺の軍団に走った深い亀裂を、残酷なまでに浮き彫りにしていた。
「だが、諸君は違う! 諸君は、真のローマの兵士だ!」
俺は声を張り上げた。様子見の大多数を、こちら側へと引き寄せなければならない。
「あの小僧は、父の名を借りているだけの、戦場を知らぬ子供に過ぎん! ローマの未来を託せる男か? 否! この俺、マルクス・アントニウスこそが、カエサル閣下の正当な後継者だ! 俺と共に来い! 俺が、諸君らに真の栄光と、正当な報酬を与えてやろう!」
必死に言葉を尽くす。
だが、大多数の兵士たちの反応は鈍いままだった。
彼らの心は、俺が差し出す「栄光」と、オクタウィアヌスが約束したカエサルの「遺産」とを、天秤にかけているのだ。
その時、俺は悟った。
奴らは、金だけで動いたのではない。
オクタウィアヌスが振りかざした、もう一つの力。カエサルの「名」と、その「遺志」という、亡霊のような力に、心を奪われたのだ。
俺がカエサルの部下として戦場で手に入れた兵士からの信頼は、カエサルの「息子」という血の繋がりと、その遺言という大義名分の前では、かくも無力だったのか。
演台の上で、俺は生まれて初めて、真の恐怖と孤独を味わっていた。
足元が、ぐらぐらと揺れる。
兵士たちの値踏みするような視線が、無数の槍となって俺の体を貫いていくかのようだ。
「……もうよい」
俺は、絞り出すように言った。
もはや、これ以上言葉を重ねるのは、無駄なだけでなく、俺の威厳を損なうだけだ。
「行きたければ行け。あの小僧の下へ。だが、覚えておくがいい。貴様らが今日、この俺の決断をためらったことを、いずれ必ず後悔させてやる」
吐き捨てるように言うと、俺は演台を降りた。
兵士たちの間を、誰の顔も見ずに通り抜ける。これ以上、この屈辱の場所に留まることは耐えられなかった。
天幕に戻ると、俺は地図を広げた。
ローマか? いや、違う。
この一枚岩ではない軍団を率いてローマに戻れば、元老院のキケロどもに何を言われるか分かったものではない。
北だ。北へ向かう。
俺の指は、地図の一点を強く押さえていた。
ガリア・キサルピナ。そこは、カエサル暗殺犯の一人、デキムス・ブルトゥスが属州総督として支配している土地。
「全軍に伝えろ! 北へ向かう! 目指すは、ガリア・キサルピナだ!」
そうだ。
まずは、あの裏切り者の一人を血祭りにあげてくれる。
俺の怒りを、ローマ全土に知らしめてやるのだ。
あの小僧にも、元老院の老害どもにも、このマルクス・アントニウスを敵に回せばどうなるかを、骨の髄まで思い知らせてやる。
それは、冷静な計算に基づいた戦略ではなかった。
ただ、燃え盛る怒りと屈辱に突き動かされた、破滅への行軍の始まりだった。
第二幕:勝者の計算
ローマに戻った私を待っていたのは、二人の軍団が加わったという吉報だけではなかった。
アントニウスが、残った手勢を率いて、ブルンディシウムを発ち、北へ向かったという情報が、オッピウスの迅速な情報網によってもたらされたのだ。
「……北へ。となると、狙いはデキムス・ブルトゥス、ですか」
ローマ郊外の邸宅。私の隣で、マエケナスが呟くように言った。
その声には、予測通りの結末に対する、ある種の満足感さえ含まれているようだった。
向かいに座るレビルスが、静かに頷く。
「計算通り、というわけですな。アントニウスは、ローマでの政治的劣勢を、軍事行動によって覆そうとしている。そして、その最初の標的として、カエサル閣下の暗殺犯を討つという、分かりやすい大義名分を選んだ」
彼の言葉は、常に冷静で、盤上の駒の動きを読み解くように、無駄がない。
私は、窓の外に広がるローマの夜景を見つめながら、静かに口を開いた。
「ええ。そして、それは彼が仕掛けてくれた、最高の好機です」
私の言葉に、レビルスとマエケナスの視線が集まる。
私は、二人に向き直ると、私の思考を、一つずつ丁寧に言葉にしていった。
「アントニウスは、現職の執政官です。その彼が、元老院の正式な許可なく、属州総督であるデキムス・ブルトゥスを攻撃すれば、どうなるか」
「……ローマへの反逆。国家の敵と、見なされるでしょうな」
レビルスが、即座に答えた。
「その通り。特に、キケロ殿をはじめとする元老院の重鎮たちは、この機を逃しはしない。彼らは、アントニウスを『第二のカエサル』になる可能性のある、危険な存在だと見なしている。彼らは、アントニウスを『国家の敵』と宣言し、彼を討伐するための、正規の討伐軍を編成するでしょう」
そこで、私は一度言葉を切った。
そして、この計画の最も重要な核心部分を告げた。
「そして、その討伐軍の指揮官として、彼らが白羽の矢を立てざるを得ないのは、誰か?」
マエケナスが、はっとしたように息を呑んだ。
彼の瞳が、私の真意を正確に捉えたことを示していた。
「……なるほど。ローマには今、アントニウスに対抗しうる、大規模な軍団が存在しない。ただ一つ、あなたの下へと集った、カエサルの軍団を除いては」
私は、静かに頷いた。
「元老院は、私を『駒』として使うつもりでしょう。若く、経験のない私に軍権を与え、アントニウスと共倒れになることを望むかもしれない。だが、それでいいのです。重要なのは、私が元老院から、『公的な指揮権』を与えられる、という事実そのもの。それさえ手に入れてしまえば、私の軍は、もはや私兵集団ではなく、ローマの正規軍となる」
私は、自らの手を汚すことなく、アントニウスを排除する。
それも、私を駒としか見ていない元老院自身の権威を使って。彼らが私に与える剣で、彼らの敵を討ち、その功績と軍団を、そっくりそのまま自分の力へと変えるのだ。
私の計画を聞き終えた部屋は、静寂に包まれていた。
やがて、レビルスが、静かにその口元を綻ばせた。
それは、長年の探求の末に、ついに答えを見出した求道者のような、深く、そして晴れやかな笑みだった。その声には、抑えきれない喜びと確信が満ちていた。
「……ああ。やはり、カエサル閣下は、正しかった」
彼は、まるで感極まったかのように、ゆっくりと頷いた。
「閣下は、ご自身の後継者に、最高の『ローマ』を託された。勇猛さではなく、ましてや血筋でもない。この国を百年先まで見通す、その冷徹なまでの『計算』と『政治』の才こそ、真の後継者に必要なものだと、全てお見通しだったのだ」
隣のマエケナスも、珍しく真顔で私を見つめていた。
その瞳には、かつて彼自身が持っていた、冷徹な現実主義者のそれとは質の違う、底知れない何かを見つめるような色があった。
「いや、レビルス殿。これは、計算だけではない。人の欲望と、傲慢さ、そして国家という巨大な機構の力学、その全てを読み切った上での、最高の『政治』だ」
二人からの言葉を、私は静かに受け止めた。
父カエサルは、あまりにも偉大すぎた。その圧倒的な力で、彼は敵も、旧い秩序も、全てを薙ぎ払おうとした。
だが、その結果、父は敵を作りすぎ、そして暗殺された。
私は、父と同じ過ちは犯さない。私は、敵の力を利用し、敵の剣で敵を討たせる。
ゆっくりと、着実に、誰にも気づかれぬうちに、このローマの全てを掌握するのだ。
時間は、私の味方なのだから。
窓の外では、ローマの街が、深い眠りについていた。
この七つの丘の都が、やがて私の手の中に収まることになることを、まだ誰も知らずに。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




