第六章:静かなる潜入
ブルンディシウムの港からほど近い丘陵地帯に、マルクス・アントニウスがマケドニアから呼び寄せた軍団の野営地が広がっていた。
ローマ最強を謳われる精鋭たちのキャンプではあるが、その空気は奇妙なほどに澱み、重かった。
兵士たちの間には、執政官への不信と、先の見えない未来への不安が、冷たい霧のように立ち込めている。
その霧の中へと、二人の男が、まるで旧友を訪ねるかのように、ごく自然に溶け込んでいった。
一人は、ドワーフのボルク。
かつてカエサルの下で戦い、その無骨なまでの実直さでレビルスに絶対の信頼を置かれている歴戦の勇士。
もう一人は、ローマ市民でありながら叩き上げのベテラン兵、セクンドゥス。
戦場では頼りになるが、平時は常に斜に構え、皮肉ばかりを口にしている男。
対照的な二人だが、レビルスという指揮官への忠誠心と、その「計算」を戦場で実行する能力の高さは共通していた。
レビルスの命を受け、退役兵を装ってアントニウスの軍団キャンプへと潜入した彼らの任務は、ただ一つ。
この軍団を、内側から切り崩すことだった。
その夜、野営地の一角で、ひときわ大きな焚き火が揺らめいていた。
火を囲むのは、いずれも百戦錬磨の強者であることを隠そうともしない、屈強な百人隊長たちだ。
ボルクとセクンドゥスは、彼らの中にいた。
ガリアや内乱の戦場で、同じ釜の飯を食った旧知の仲。
再会を祝す酒が酌み交わされ、しばし戦の思い出話に花が咲く。
だが、酒が回るにつれ、彼らの口から漏れるのは、現状への不満と、アントニウスへの苛立ちだった。
「…執政官殿は、どうも俺たちの気持ちが分かっておられんらしい」
一人の百人隊長が、吐き捨てるように言った。
「カエサル閣下なら、決してこんなやり方はなさらなかった。あの方は、俺たち兵士一人一人の顔と名を覚えておられた。俺たちを、ただの駒ではなく、家族として扱ってくださった」
「違いない。それに比べて、アントニウス様は、ただ力で俺たちを支配しようとなさる。気に入らねば、すぐに処刑だ。これでは、犬死にさせられるのと変わらん」
アントニウスの厳しい統治への不満は、すでに兵士たちの間で限界に達していた。
機は、熟した。
ボルクは、静かに酒杯を置くと、重い口を開いた。
彼の声は、決して大きくはない。
だが、その実直な響きは、その場にいた全員の注意を惹きつけた。
「お前たち…忘れたわけではあるまいな。俺たちが、誰のために戦ってきたのかを」
ボルクは、一人一人の顔を、その力強い瞳で見据えながら言った。
「俺たちは、ローマのため、元老院のために戦ってきたのではない。俺たちは、ただ一人、ガイウス・ユリウス・カエサルのために、命を懸けてきた。違うか?」
その言葉に、誰も反論できなかった。
「カエサル閣下は、俺たちの『父』だった。俺たちに戦い方を教え、勝利を与え、そして兵士としての誇りを与えてくださった。その父が、卑劣な暗殺者たちの手によって殺された。そして今、父が遺された最後の願いが、アントニウスの手によって踏みにじられようとしている」
ボルクは、ごくりと唾を飲み込み、言葉を続けた。
その声には、ドワーフらしい、不器用だが、しかし魂を揺さぶるほどの熱がこもっていた。
「俺たちの『父』の遺志を継ぐのは、誰だ? アントニウスか? 違う。閣下が、その全てを託すと選ばれたのは、ただ一人。ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス様だ。そのお方が今、父君の名誉を守るため、たった一人で立ち上がられた。俺たちが、その御子息を見捨てて、父の遺志を裏切る男に、このまま従い続けるのか? 俺は、ごめんだ」
ボルクの語る「大義」。
それは、理屈ではなかった。兵士たちの心の奥底に眠る、カエサルへの絶対的な忠誠心に、真っ直ぐに訴えかける、魂の叫びだった。
百人隊長たちの顔に、動揺と、苦悩と、そして共感の色が浮かぶ。
その、揺れ動く心の天秤に、最後の一押しをするかのように、セクンドゥスが、皮肉な笑みを浮かべながら口を挟んだ。
「…まぁ、ボルクの言うような、そういう熱っ苦しい話は、俺は苦手でな」
彼は、わざとらしく肩をすくめると、焚き火の火を見つめながら、独り言のように呟いた。
「俺たちみたいな、叩き上げの兵士にとっては、もっと現実的な話の方が、分かりやすくていい。そうだろ?」
セクンドゥスは、百人隊長たちを見回し、にやりと笑った。
「それに、だ。そもそも計算が合わん。執政官のアントニウス殿が、俺たちに約束してくださった特別ボーナスは、いくらだったかな? ああ、確か100デナリウス。大した額だ。だが、一方のオクタウィアヌス様が、カンパニアで集めた退役兵たちに約束された額は、その5倍の500デナリウスだそうだ」
その言葉に、百人隊長たちが、はっと息を呑んだ。
セクンドゥスは、その反応を楽しむかのように、ゆっくりと言葉を続けた。
「大義だの、忠誠だのという難しい話は抜きにしてもだ。どちらが俺たちの働きに、正当に報いてくれるかは、もはや計算するまでもないだろう。俺は、俺の命の値段を、安く買い叩かれるのは趣味じゃないんでね。お前たちは、どうだ?」
セクンドゥスの語る「実利」。
それは、ボルクの言葉で揺れ動いていた彼らの心を、現実的な損得勘定で、完全に捉える、決定的な一撃だった。
カエサルへの忠誠という、抗いがたい「大義」。
そして、自らの働きと命に見合う、圧倒的な「実利」。
この二つが、アントニウスの厳しい統治への不満と完璧に結びついた時、百人隊長たちの心は、決した。
一人が、静かに立ち上がり、ボルクの前に進み出ると、その胸を拳で叩いた。
「…俺も、あんたと同じ気持ちだ。俺は、カエサルの息子の下で戦いたい」
その一言を皮切りに、次々と男たちが立ち上がり、無言のうちに、その意志を示した。
ボルクとセクンドゥスは、言葉を交わすことなく、静かに頷き合った。
裏の戦線は、今、静かに、しかし完全に、我々の勝利に終わった。
ブルンディシウムに集結したローマ最強の軍団は、その刃を、もはやアントニウスには向けないだろう。
彼らが真の主君として忠誠を誓う相手は、ただ一人。
北の地で、カエサルの軍団が、静かに産声を上げようとしていた。
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