第五章:二正面作戦
第一幕:盤上の予測
秋が深まり、ローマの空気が冷たく張り詰めてきた10月。我々は再び、ローマ郊外の邸宅に集まっていた。
オクタウィアヌス、アグリッパ、マエケナス。
そして私、ガイウス・セルウィリウス・レビルスと、オッピウス、バルブス。カエサル派の未来を担う、新旧二つの世代。
この密会が、もはや我々の最高意思決定機関となっていた。
室内に持ち込まれたのは、オッピウスの情報網が掴んだ、一つの急報だった。
「マルクス・アントニウスが、ついに動きました」
オッピウスは、手にしたパピルスの巻物を広げながら、静かに、しかし重い声で告げた。
「彼は執政官として、マケドニアに駐留する軍団のローマ帰還を命令。自ら、その軍団を出迎えるため、ブルンディシウムの港へ向かったとのことです」
室内に、緊張が走った。マケドニア軍団。
それは、カエサルが来るべきパルティア遠征のために鍛え上げていた、ローマ軍の中でも最強と謳われる精鋭中の精鋭だ。
その数、実に四個軍団。
アントニウスは、ローマでの政治闘争に見切りをつけ、圧倒的な軍事力を背景に、全てを力で覆そうとしているのだ。
「…やはり、あの男は戦場でしか物事を考えられんらしい」
アグリッパが、苦々しげに吐き捨てた。
彼の言う通りだ。
アントニウスは、自らが最も得意とする土俵へ、戦いの舞台を移そうとしている。
「奴の狙いは、軍団の数で我々を圧倒すること。そして、カエサルの名を継ぐオクタウィアヌス殿に忠誠を誓う兵士たちを、力で威圧し、自らの指揮下に取り込むことでしょう」とバルブスが分析する。
その通りだ。だが、その一点にこそ、奴の最大の計算違いがある。
私は、皆の視線が自分に集まるのを感じながら、静かに口を開いた。
「…二正面作戦を、提案します」
私の言葉に、若者たちが息を呑むのが分かった。
「アントニウスの狙いは、確かに軍団の数で我々を圧倒することです。ですが、その軍団の忠誠心は、彼ではなく、カエサル閣下の名にある。兵士たちが本当に忠誠を誓う相手は、アントニウスではない。カエサルの正当な後継者である、オクタウィアヌス殿なのです。我々は、これを突く」
私は、テーブルに広げられたイタリアの地図を指し示した。
「この作戦の役割分担は、明確です」
私はまず、オクタウィアヌスとアグリッパの二人を見た。
「オクタウィアヌス殿とアグリッパ殿は、『表の戦線』を担当していただく。カエサルの退役兵が多く住むカンパニア地方へ赴き、遊説を行うのです。父の遺志を継ぐこと、そして彼らに正当な土地と報酬を約束することを訴え、我々の最初の正規軍団を組織してください。これが、アントニウスの注意を南イタリアから逸らすための、最大の陽動となります」
アントニウスは、オクタウィアヌスを「小僧」と侮ってはいるが、カエサルの退役兵たちが持つ潜在的な力を、誰よりも理解しているはずだ。
その後継者が、退役兵たちの間で軍団を組織し始めたとなれば、決して無視はできない。
私は、地図の上で、ブルンディシウムの港を指でなぞった。
「そして、『裏の戦線』…アントニウスが意気揚々と軍団を出迎えるブルンディシウムへ潜入し、敵軍団を内側から切り崩すという汚れ仕事は、私の者たちに任せていただきたい。兵士たちの間に、アントニウスへの不信感を植え付け、オクタウィアヌス殿への期待感を煽る。言葉と金を使って、彼らの忠誠心を、静かに、しかし確実に、我々の方へと手繰り寄せるのです」
表の戦線で、公然と軍団を組織し、アントニウスの目を引きつける。
その裏で、アントニウスが最も信頼するはずの軍団の足元を、静かに腐らせていく。
二つの戦線は、互いに連携し、アントニウスを精神的に追い詰めるための、巨大な罠となる。
私の説明を、オクタウィアヌスは静かに聞いていた。
その蒼白な貌には、何の感情も浮かんでいない。
だが、彼の瞳の奥では、この作戦の持つ意味と、その先に待つであろう結果を、恐るべき速度で計算しているのが見て取れた。
やがて彼は、静かに頷いた。
「…レビルス殿の計算、お受けしよう。アグリッパ、準備を」
その一言で、全ては決した。ローマの盤上は、今、静かに、しかし決定的に動き始めたのだ。
第二幕:後継者の遊説
レビルス殿の作戦計画書を受け取ってから数日後、俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、オクタウィアヌスと共にカンパニア地方の土を踏んでいた。
ここは、カエサルが退役兵たちに与えた土地が、最も多く存在する場所だ。
つまり、イタリアにおける、カエサルへの忠誠心が最も色濃く残る土地でもある。
俺たちの仕事は、ここで剣を置いたはずの歴戦の勇士たちを説得し、再び武器を取らせ、新しい主君の下で戦うための軍団を組織すること。
口で言うほど、簡単なことではない。
彼らは、二十年近くも戦い続け、ようやく手に入れた平和な暮らしを、そう易々と手放すはずがなかった。
最初の訪問地である、カプアの町に着いた時、俺は正直、不安を禁じ得なかった。
町の広場に集まった退役兵たちの顔には、期待よりも、むしろ厳しい猜疑の色が浮かんでいたからだ。
彼らは、俺たちを見ているのではない。カエサルの名を継いだという、病弱そうな十八歳の若者を、値踏みするように見ているのだ。
「…大丈夫か、オクタウィアヌス」
演台代わりの荷車に登る直前、俺は思わず友に声をかけた。
彼の顔は、長旅の疲れもあってか、いつも以上に青白い。
屈強な兵士たちが放つ無言の圧力に、押し潰されてしまわないかと、本気で心配になった。
だが、オクタウィアヌスは、静かに俺を見て、かすかに微笑んだだけだった。
「心配するな、アグリッパ。彼らが何を求めているか、私には分かっている」
そして彼は、一人で荷車の上へと登った。
何の飾り気もない、ただの若者。
その姿に、集団の中から、ざわめきが起こる。
だが、オクタウィアヌスが静かに口を開くと、そのざわめきは、水を打ったように静まり返った。彼の声は、決して大きくはない。
だが、不思議なほどよく通り、集団の隅々にまで染み渡っていった。
「カエサルの兵士たちよ。我が父の、戦友たちよ」
その第一声で、場の空気が変わった。
彼は、自分を「主君」ではなく、彼らの「戦友の息子」として語り始めたのだ。
「私は、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス。父の遺言により、その名と意志を継いだ者だ。君たちが、父の死を悼み、その名を汚す者たちへの怒りを胸に、こうして集まってくれたことに、心から感謝する」
彼は、ゆっくりと集団を見渡した。
「君たちは、二十年間、父と共に戦い、ガリアを平定し、内乱を終わらせ、このローマに平和をもたらした。その功績に対し、父は、このカンパニアの土地と、十分な恩賞を約束した。その約束があったからこそ、君たちは安心して剣を置き、家族との暮らしに戻れたはずだ。だが、その約束は、今、踏みにじられようとしている」
彼の声に、次第に力がこもっていく。それは、怒りの力だった。
「父の部下であったはずのマルクス・アントニウスは、父が遺した資産を独占し、君たちに支払われるべき恩賞を、支払おうとしない。それどころか、彼は今、マケドニアから軍団を呼び寄せ、その力でローマを支配しようとしている。それは、父が最も憎んだ、私利私欲のための、新たな内乱の始まりだ」
退役兵たちの顔に、険しい光が宿り始める。
彼らの胸の奥底に眠っていた、戦士としての誇りと、カエサルへの忠誠心が、静かに揺り起こされていくのが分かった。
「私は、それを許さない。父の名誉と、君たちの権利を守るため、私は立ち上がった。私は、父から受け継いだ財産をすべて売り払い、父の遺言通り、ローマ市民への遺産分配を、すでに実行し始めている。そして、君たちにも約束しよう。父が約束した土地と報酬は、私が必ず保証する。何一つ、不足させることはない」
それは、誓いだった。私財を投げ打ってでも、約束を果たす。
その言葉の持つ重みが、兵士たちの心を激しく揺さぶった。
金のためではない。
偉大なるカエサルの遺志を、その息子が、命を懸けて守ろうとしている。
その事実が、彼らの心を捉えたのだ。
「兵士たちよ! もう一度、私に力を貸してほしい。これは、私個人の戦いではない。殺された父の、そして踏みにじられようとしている君たちの、名誉を取り戻すための戦いだ。再び武器を取り、私と共に、アントニウスの野心を打ち砕いてほしい。そうすれば、私は君たちに約束しよう。父カエサルが約束した以上の報酬と、終生変わらぬ名誉を、必ずや君たちのものにすると!」
演説が終わった瞬間、一瞬の静寂が訪れた。
そして次の瞬間、大地が震えるほどの、凄まじい雄叫びが巻き起こった。
「カエサル!」
「若きカエサル万歳!」
もはや、そこに疑いの色はなかった。彼らの瞳に宿っていたのは、完全な信頼と、再び戦場に立てるという歓喜の光だった。
俺は、荷車の上で静かに佇む友の横顔を見つめ、呆然としていた。
これが、オクタウィアヌスの力なのか。
彼は、武力でも、威圧でもない。
ただ、言葉だけで、人の心を動かし、忠誠心を勝ち取り、一個軍団を無から生み出してみせた。
レビルス殿が言う「計算」とも、俺が信じる「武勇」とも違う、全く異質の、しかし恐るべき力。
友の持つ不思議な力に、俺は改めて感嘆すると同時に、静かな畏怖を感じていた。
この男となら、あるいは本当に、ローマの未来を創れるのかもしれない。
表の戦線は、今、完璧な形で火蓋を切った。
カンパニアの地で、カエサルの遺志を継ぐ新しい軍団が、産声を上げたのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




