第二章:ローマでの対決
時期:紀元前44年6月
カエサルの名を継いだ若き主君への狂信的な熱を帯びた軍団を南イタリアに残し、俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、オクタウィアヌスと共にローマの土を踏んだ。
供は、マエケナスが手配した少数の護衛のみ。
我々の目的は、武力による示威ではない。
法と、大義と、そして人心を巡る、「静かなる戦争」を仕掛けるためだ。
その最初の戦場として選ばれたのは、フォルム(公共広場)に面して建つ、現執政官マルクス・アントニウスの邸宅だった。
壮麗な、というよりは武骨で威圧的なその建物は、さながら城砦のようだ。
今のローマの実質的な支配者は自分であると、無言のうちに誇示しているかのようだった。
通された広間は、がらんとしていて、それがかえって不気味なほどの圧迫感を生んでいた。
壁際に控える数人の男たち。
いずれもアントニウスの腹心だろう。誰もが歴戦の強者であることを隠そうともしない、鋭い視線を俺たちに向けてくる。
まるで品定めをするかのように。無言の圧力が、広間の空気を重く、濃密にしていた。
俺はオクタウィアヌスの半歩後ろに立ち、油断なく周囲を観察する。
いつでも主君を守れるように。
だが、当のオクタウィアヌスは、その重圧をまるで意に介していないようだった。
彼はまだ十八歳。華奢な体躯は、武具よりもトーガの方が似合う。
しかし、その蒼白な貌に浮かぶ静かな表情は、歴戦の将軍でさえ臆させるほどの、不思議な威厳を湛えていた。
彼は、自分が何者であるかを、そして自分が何をすべきかを、完全に理解している。
その揺るぎない確信が、彼を特別な存在にしていた。
やがて、広間の奥の扉が開き、一人の男が姿を現した。
マルクス・アントニウス。
その姿を視界に捉えた瞬間、俺は全身の筋肉が強張るのを感じた。
これが、カエサル配下最高の猛将。
ガリアで、内乱で、その武勇をローマ全土に轟かせた男。
想像していた以上の威圧感だった。
四十歳を目前にしたその肉体は、贅肉の一片もなく、まるで鍛え上げられた鋼のようだ。
歴戦の傷跡が刻まれた顔には、自信と傲慢さが溶け合っている。
だが何よりも俺を射すくめたのは、その瞳の奥に宿る、野生の獣のような獰猛な光だった。
戦場で幾度も死線を越えてきた者だけが放つ、抗いがたい威圧感。
ただそこにいるだけで、周囲の空間を支配してしまう。
これが、本物の将軍か。
「……よく来たな、小僧」
アントニウスは、まるで戯れに虫けらを踏み潰すかのように、侮蔑を隠そうともしない声で言った。
その視線は、オクタウィアヌスを通り越し、まるで存在しないかのように扱っている。
広間にいた男たちから、くすくすという嘲笑が漏れる。
完全に、なめられている。アグリッパ、と俺は心の中で自分を戒めた。
ここで熱くなるな。相手の土俵に乗ってはならない。
オクタウィアヌスは、その侮蔑を意に介した様子もなく、静かに、しかし明瞭な声で言った。
「執政官マルクス・アントニウス殿。私は、ガイウス・ユリウス・カエサルの遺言に基づき、彼の正当な相続人としてここに来ました。父の遺志を継ぎ、ローマ市民と兵士たちに約束された遺産を分配するため、国庫に保管されている父の資産の引き渡しを要求します」
その言葉は、若さに似合わぬほど、落ち着き払っていた。
一言一句に、法的な正当性と、揺るぎない意志が込められている。
見事だ、と俺は思った。
アントニウスの威圧に臆することなく、彼は自らの要求を、完璧な形で突きつけた。
アントニウスの眉が、ぴくりと動いた。面白い、とでも言うように、その口元に獰猛な笑みが浮かぶ。
「遺産、だと? 小僧、貴様は状況を理解しているのか? カエサルは死んだ。そして、彼の資産は、今やローマの国庫に帰属している。それをどう使おうと、この執政官である私の自由だ。貴様のような、カエサルの名前を騙るだけの若造に、指図される謂れはない」
「私は名を騙ってなどいません。法に則り、父の名と資産を継承したのです。執政官、あなたの行動は、父の遺志を踏みにじり、ローマの法を蔑ろにするものです」
「法、だと?」
アントニウスは、心底おかしいというように、声を上げて笑った。
その笑い声は、広間の空気を震わせる。
「小僧、貴様の父親こそが、その法を軍靴で踏み潰してローマを支配した男ではなかったか? その息子が、今さら法を語るとは、笑わせるな」
彼は一歩、オクタウィアヌスに歩み寄った。
その巨躯が、まるで影のように小柄な友人にのしかかる。
「いいか、よく聞け。ローマは今、指導者を失い、混乱している。この混乱を収拾し、国家を安定させることができるのは、カエサルの下で長年戦い続けてきた、この俺だけだ。そのためには金がいる。貴様の言う『遺産』は、そのための原資として、有効に使わせてもらう。市民へのばらまきや、兵士への気まぐれな恩賞で、国家の財産を浪費するつもりはない」
アントニウスは、オクタウィアヌスの肩に、わざと強く手を置いた。
その目は、もはや侮蔑ではなく、明確な脅しと警告の色を帯びていた。
「大人しくアポロニアに帰って、勉学にでも励むがいい。ローマの政治は、貴様のような子供のままごと遊びではないのだ」
その瞬間、俺は一歩、前に出ようとした。
だが、それをオクタウィアヌスが、見えない角度で、そっと手で制した。
彼は、アントニウスの威圧を真っ向から受けながらも、少しも怯まなかった。
それどころか、その瞳には、憐れみのような色さえ浮かんでいた。
「執政官。あなたは、何も理解していない」
静かだが、鋼のように強い声が、広間に響き渡った。
「父は、確かに法を超えた。だがそれは、旧い秩序を壊し、新しいローマを創るためでした。そして、その新しいローマの礎は、彼が市民と兵士たちに約束した『信頼』によって築かれるはずだった。あなたは、その最も重要な礎を、自らの手で破壊しようとしている」
オクタウィアヌスは、アントニウスの瞳を真っ直ぐに見据えたまま、続けた。
「あなたでは、父の後継者にはなれない。あなたはただの将軍に過ぎないが、父は、未来を創る『建国者』だったからです」
その言葉は、決定的な引き金となった。
アントニウスの顔から、笑みが消えた。代わりに、憤怒の炎がその瞳に燃え盛る。
「……小僧が」
地を這うような低い声が、彼の喉から漏れた。
「貴様ごときが、この俺を侮辱するか」
広間の空気が、張り詰めた弓のように、断ち切れる寸前まで緊張した。
アントニウス派の男たちが、一斉に腰の剣に手をかける。
俺は、いつでもオクタウィアヌスを庇って飛び出せるよう、全身の神経を研ぎ澄ませた。
だが、アントニウスは剣を抜かなかった。
代わりに、彼はゆっくりとオクタウィアヌスから手を離すと、吐き捨てるように言った。
「出て行け。二度と私の前にその顔を見せるな。遺産は、一銭たりとも貴様には渡さん。それが、このローマの執政官としての、正式な決定だ。不服があるなら、力ずくで奪ってみるがいい。貴様らにそんな度胸があればの話だがな」
それは、最終通告だった。交渉の余地など、もはや一片も残されていない。
「……承知しました」
オクタウィアヌスは、静かにそう答えると、くるりとアントニウスに背を向けた。
その所作には、不思議なほど怒りや屈辱の色が見えなかった。
まるで、この結末を初めから予期していたかのように。
彼は、俺に目配せすると、広間を出ていく。
俺は、最後まで警戒を解かずにアントニウスたちを睨みつけながら、その後に続いた。
邸宅の外の、喧騒と陽光に満ちたフォルムに出た瞬間、俺は思わず大きなため息をついた。
「……交渉は、決裂だな」
俺の言葉に、オクタウィアヌスは足を止め、初めて静かな笑みを浮かべた。
「いや、アグリッパ。交渉などではなかった。あれは、確認だったのだ」
「確認?」
「そうだ。マルクス・アントニウスが、父の遺志を継ぐに値しない男であること。そして、我々の戦うべき相手が、誰であるかの」
その言葉を聞いた瞬間、俺は理解した。
オクタウィアヌスは、初めから金を引き出せるとは思っていなかった。
彼は、アントニウスという男の本質を、そして彼我の対立が不可避であることを、このローマの全てに知らしめるために、この会談を仕組んだのだ。
これが、新しい時代の幕開けだった。
カエサルという太陽を失ったローマで、彼の遺産を巡り、二人の男が初めて激突し、そして完全に袂を分かった瞬間。
この対立が、やがてローマ全土を巻き込む、新たな内乱の火種となることを、この時の俺は、まだ知らなかった。
だが、友の横顔に浮かぶ揺るぎない決意を見て、この先に待つ道が、決して平坦ではないことだけは、はっきりと覚悟したのだった。
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