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建国記異聞  作者: 奪胎院
第二部

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第一章:カエサルの軍団

時期:紀元前44年4月下旬

場所:イタリア南部


ブルンディシウムの港に、父の名を継ぐという若き獅子の声が響き渡って以来、南イタリアの大地は、まるで長年の渇きから目覚めたかのように、熱を帯びていた。


俺、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、その熱の中心にいた。俺の無二の友であり、今や我が主君となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス。


その名の響きに引き寄せられるように、ローマの至宝と謳われた歴戦の兵士たちが、一人、また一人と、我々の下へと集結しつつあった。


彼らの多くは、すでに一度剣を置き、故郷で静かな余生を送っていたはずの男たちだ。


だが、その顔に刻まれた深い皺と、日に焼けた肌は、ガリアの凍てつく森で、ギリシャの乾いた大地で、エジプトの灼熱の砂漠で、二十年近くもカエサルと共に死線を越えてきた、紛れもない強者の証だった。


彼らは、俺たちを見るのではない。俺の隣に立つ、まだあどけなささえ残る十八歳の若者の、その向こうに、かつて自分たちを勝利へと導いた絶対的な指揮官の面影を見ているのだ。


その瞳に宿る光は、単なる忠誠心ではない。それは、狂信と呼んで差し支えないほどの、激しい熱情だった。


「見ろ、アグリッパ。父が残してくれた、最高の遺産だ」


野営地の小高い丘の上から、集まり続ける人の波を眺めながら、オクタウィアヌスが静かに呟いた。


彼の横顔は、南イタリアの強い日差しを浴びて、病的なまでに白い。


その華奢な体躯は、およそ一個軍団を率いる将には見えない。


だが、彼の蒼い瞳の奥には、この熱狂の奔流を、自らの手で完全に御してみせるという、鋼のような意志が宿っていた。


俺は、その言葉に素直に頷くことができなかった。


軍人としての俺の目は、この光景に熱狂と同時に、それと同じくらいの危うさを感じ取っていたからだ。


「確かに、彼らの忠誠は本物だ。だが、オクタウィアヌス。彼らは正規の軍団ではない。指揮官も、百人隊長も、部隊編成すらない、ただの『集団』だ。そして何より、彼らの忠誠はローマ国家ではなく、カエサルという個人、そして今はお前に向けられている。これは、国家の軍隊ではなく、お前の『私兵』だ」


俺の言葉に、オクタウィアヌスは静かに頷いた。


「分かっている。だからこそ、俺は彼らと約束を交わす。そして、彼らを本当の意味で、俺の軍団にする」


数日後、野営地の中央に、急ごしらえの演壇が設けられた。


そこに集まった退役兵の数は、すでに五千を超えていた。


鎧も兜も持たず、普段着のまま集まった男たちの群れは、一見すればただの民衆の集会にしか見えない。


だが、その場に満ちる、張り詰めたような空気は、いかなる精鋭軍団の閲兵式にも勝るほどの、凄まじい圧力を放っていた。


やがて、オクタウィアヌスが、俺だけを伴って、静かに演壇へと登った。


何の飾り気もない、ただの若者。


その姿に、集団の中から、微かなざわめきが起こる。本当にこの若者が、あのカエサルの後継者なのか、と。


だが、オクタウィアヌスは、その数千の疑うような視線を、臆することなく一身に受け止めた。


彼は、ゆっくりと集団を見渡し、そして、静かに口を開いた。


その声は、若さに似合わず、不思議なほどよく通り、集団の隅々にまで染み渡っていった。


「カエサルの兵士たちよ。我が父の、戦友たちよ」


その第一声で、場の空気が変わった。


ざわめきが、ぴたりと止む。彼は、自分を「主君」ではなく、彼らの「戦友の息子」として語り始めたのだ。


「私は、ガイウス・オクタウィアヌス。父の遺言により、その名と意志を継いだ者だ。君たちが、父の死を悼み、その名を汚す者たちへの怒りを胸に、こうして集まってくれたことに、心から感謝する」


彼は、一度言葉を切った。


「だが、君たちの中には、不安に思う者もいるだろう。父カエサルは、あまりにも偉大すぎた。私のような若者に、本当に父の代わりが務まるのか、と。当然の疑念だ。私には、父のような戦場での武勇も、百戦錬磨の経験もない」


集団は、静まり返ったまま、固唾を飲んで彼の次の言葉を待っていた。


オクタウィアヌスは、自らの弱さを隠さなかった。


その潔さが、逆に歴戦の兵士たちの心を掴み始めていた。


「私に出来ることは、ただ一つ。父が遺した約束を、何一つ違えることなく、完全に実行することだけだ」


その言葉に、集団が大きくどよめいた。


「父は、その遺言に記した。ローマ市民一人一人に、三百セステルティウスを分配せよ、と。そして、君たち退役兵には、長年の功に報いるための、十分な恩賞を与える、と。だが、今のローマを牛耳るマルクス・アントニウスは、その約束を果たそうとしない。父がローマのために遺した資産を、自らのものにしようとしている」


彼の声に、次第に力がこもっていく。それは、怒りの力だった。


「私は、それを許さない。父の名誉と、君たちの権利を守るため、私はローマへ行く。アントニウスと対峙し、父の遺産を、正当な持ち主である君たちと、ローマ市民の手に取り戻す。そのために、私はこの身代をすべて投げ打つつもりだ。たとえ、私個人の財産をすべて売り払うことになろうとも、父が遺した約束だけは、必ず果たしてみせる」


それは、誓いだった。


私財を投げ打ってでも、約束を果たす。


その言葉の持つ重みが、兵士たちの心を激しく揺さぶった。


金のためではない。


偉大なるカエサルの遺志を、その息子が、命を懸けて守ろうとしている。その事実が、彼らの心を捉えたのだ。


「兵士たちよ! 私と共に来てほしい。これは、私個人の戦いではない。殺された父の、そして踏みにじられようとしている君たちの、名誉を取り戻すための戦いだ。私に力を貸してくれ。そうすれば、私は君たちに約束しよう。父カエサルが約束した以上の報酬と、終生変わらぬ名誉を、必ずや君たちのものにすると!」


演説が終わった瞬間、一瞬の静寂が訪れた。


そして次の瞬間、大地が震えるほどの、凄まじい雄叫びが巻き起こった。


兜を打ち鳴らす音、剣を掲げる音、そして、新しい主君の名を叫ぶ声。


もはや、そこに疑いの色はなかった。


彼らの瞳に宿っていたのは、完全な信頼と、再び戦場に立てるという歓喜の光だった。


俺は、隣で静かに佇む友の横顔を見つめた。


彼は、ただの一人の若者ではない。


彼は、言葉という武器を手に、たった一人で、一個軍団の心を完全に掌握してみせたのだ。


この瞬間、カエサルの軍団は、真の意味で、オクタウィアヌスの軍団となった。


そして俺は、この友と共に歩む道が、ローマ全土を巻き込む、長く、そして厳しい戦いになることを、静かに覚悟したのだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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