05 裏切り者に死を
七時五十九分。
佐藤凡は無表情でスマホの時刻を見つめていた。
そして今、彼はベッドから起き上がったばかりだった。
隣を見る。
ルームメイトたちは、当然のようにまだ爆睡している。
ははっ、よかった。
もう間に合わない!
さらば、1限!
一人でサボるより、みんなでサボったほうが、やっぱり安心感があるな。
寝よう寝よう!
「ブブブブ……」
スマホが振動した。
佐藤凡が確認すると、花沢小渵からメッセージが届いていた。
こいつ、こんな朝早くから起きてるのか?
健康的すぎるだろ。
大きな魚:出てこい、ケンタッキー食べよう!
ドン・橘ホーテ:マジ? 朝から食うの?
大きな魚:三食全部ケンタッキーでも余裕!
ドン・橘ホーテ:お嬢様、俺はもう土下座する。土下座スタンプ.jpg
ドン・橘ホーテ:でも俺、1限あるんだけど。
佐藤凡はただ二度寝したかった。
昨夜遅くまで起きていたせいで、猛烈に眠い。
昨晩、彼は花沢小渵がいったいどの短編を読んだのかについて、ずっと考えていた。
自分が鬱展開の小説を書いた覚えなどない。
生粋のハッピーエンド至上主義者である佐藤凡が何より好きなのは、女の子同士をくっつけることだ。
自分も読者も苦しむような鬱展開を書くはずがない。
しかも自分が書いているものの大半は、明るく楽しい百合作品だ。
ひょっとして、花沢小渵は別のアカウントと間違えているのではないか?
とはいえ、本人に「何を読んだの?」と直接聞くのも気まずい。
そこで佐藤凡は自分のプロフィールを眺めながら、過去に書いた小説を読み返していた。
タイトルを眺めているうちに、佐藤凡は気づいた。
自分、こんなに短編を書いてたのか。
一作三、四万字としても、全部合わせれば百万字近くになる。
『ヤバい! アルミと銅に囲まれた!』
『ゴブリンに転生した俺、聖女の奴隷として苦労する』
『超人気アイドルの幼なじみが、まさか俺の叔母さん?!』
そんな偉大なる自作を鑑賞しているうちに、佐藤凡が意識を失うように眠りについたのは午前三時だった。
そして現在。
チャット画面を見ると、花沢小渵からさらにメッセージが届いていた。
大きな魚:お前の1限なんてどうでもいいだろ。どうせサボるんだろ? じゃなきゃスマホ預ける時間だぞ。
そう。
この大学には、佐藤凡がもう一つ心の底から憎んでいる制度がある。
授業中のスマホ預かりだ。
一般教養の授業ならまだいい。
だが専門科目になると、やたらと厳しい。
大学生になったというのに、高校時代と何も変わらないではないか。
ドン・橘ホーテ:そこまで見抜くとは……仕方ない。今行く。
佐藤凡は素早くベッドから降り、顔を洗って歯を磨いた。
大きなあくびを一つ。
そしてこっそりとバッグを背負い、部屋を出ようとした。
「待て!」
その瞬間。
三人のルームメイトがベッドから弾丸のように飛び出してきた。
一人が佐藤凡の右腕を、もう一人が左腕を掴み、三人がかりで佐藤凡を引き戻す。
「お前ら何してんだ!? ついに本性を現したのか! いやぁ!」
佐藤凡は慌てて尻を守りながら、壁を背にして三人から距離を取った。
「お前が言うな!」
田中陽介が怒鳴った。
「お前、こっそり1限に行こうとしてるだろ!」
「1限? 何の話だ! 俺は飯を食いに行くだけだ!」
佐藤凡は無実を訴えるように叫んだ。
「誰が飯食いに行くのにバッグ背負うんだよ! 俺たちを捨てて授業に行くつもりだろ!」
「俺が授業に行きたかったとしても、もう間に合わないだろ! 今何時だと思ってるんだ!」
「お前がこっそり教室に潜り込まない保証がどこにある! とにかく行かせない!」
「そうだ。俺たちに飯を買ってくるなら行かせてやる」
高橋昊も真剣な顔で頷いた。
「はぁ……最高の四人組が、たった一つの1限のために仲違いするなんて……。俺、もうお前らとはやっていけない」
佐藤凡は残念そうに首を振った。
まるで胸が張り裂けそうな表情だった。
「佐藤凡……俺たちとの約束、忘れたのか?」
田中陽介は真剣な目で佐藤凡を見つめた。
「や、約束って何だよ……」
佐藤凡は気まずそうに視線を逸らした。
「覚えてるだろ。当時、お前が兄弟会を作ろうって言い出して、三つの鉄の掟を決めたじゃないか」
田中陽介は佐藤凡に背を向け、両手を後ろに回した。
「鈴木亮、言ってみろ」
鈴木亮は頷き、堂々と口を開いた。
「第一! 絶対に私情で動かない!」
「第二! どんな悪事も絶対に見逃さない!」
「第三! 絶対に審判の公正と美しさを守る!」
「てめぇ、何を暗唱してんだ!」
田中陽介は鈴木亮に思い切り肘打ちを食らわせた。
「報告します、寮長! 『トンボ隊長』の台詞です!」
「誰もそれを暗唱しろなんて言ってねぇ!」
「……まあいい。俺が思い出させてやるよ」
田中陽介は佐藤凡を振り返った。
「第一! 授業も勉強もみんなで一緒に! 勝手に意識高くなる奴は処刑!」
「第二! 全員が彼女を作るまで、誰も彼女を作ってはいけない! 違反者は去勢!」
「第三! 兄弟会のゲームランク差は百ポイント以内! 勝手にランクを上げた者には、ケツバットの刑!」
そして田中陽介は、壁に貼られたA4用紙を指差した。
「白い紙に黒い文字! 全部お前が書いたんだぞ!」
「佐藤凡、お前まさか忘れたとは言わないよな?」
佐藤凡は床に這いつくばり、涙を拭うような仕草をしながら叫んだ。
「忘れるわけがない! だが本当に授業じゃないんだ! 信じてくれ!」
「授業じゃないなら……デートだ!」
田中陽介は断言した。
「お前、この半年間一度も早起きしたことないだろ! 異常事態には必ず理由がある!」
「そうだ! 飯だと? お前、朝飯なんて食ったことあったか!? いつからそんな健康的な人間になったんだ!」
高橋昊も怒鳴った。
くそっ。
どうやら簡単には説得できそうにない。
佐藤凡は心の中で嘆いた。
だが同時に、目を細める。
脱出のタイミングを見極める。
「陽介……」
佐藤凡はゆっくりと立ち上がった。
「バッグ、お前にやる」
「お?」
田中陽介は少し意外そうな顔をした。
「ようやく現実を受け入れたか?」
そう言ってバッグを受け取ろうとした瞬間。
佐藤凡が動いた。
バッグのファスナーを開け、そのまま田中陽介の頭に被せる。
「うわっ!」
視界を完全に奪われた田中陽介は、そのまま転倒した。
その隙に佐藤凡は全力で部屋の外へ駆け出す。
「くそぉぉぉ!!!」
田中陽介の怒号が響き渡った。
「逃がすか!」
高橋昊が両腕を広げ、佐藤凡の前に立ちはだかる。
しかし佐藤凡は一瞬で判断した。
上着を脱ぐ。
そして、そのまま高橋昊の顔面に投げつけた。
「うわっ!」
視界を奪われた高橋昊の横をすり抜け、佐藤凡は廊下へ駆け出した。
「佐藤凡! お前、やりすぎだろ! やっぱり何か隠してやがるな!」
鈴木亮が猛然と飛びかかってきた。
そして佐藤凡の足をがっちり掴む。
「くそっ! お前ら、しつこすぎる!」
佐藤凡は覚悟を決めた。
ならば、これしかない。
靴を脱ぐ。
そのまま片足でぴょんぴょん跳びながら、裸足で逃走した。
「うわっ!」
鈴木亮は、まさかの「尻尾切り」ならぬ「靴切り」を目の当たりにして、靴を抱えたまま呆然とした。
三人がようやく立ち直ったころには、佐藤凡はすでに寮の外へ逃げていた。
三人は慌てて追いかけたが、もう佐藤凡の姿はどこにもない。
仕方なく部屋へ戻る。
「帰ってきたら説教だな。あの野郎、絶対何か隠してる」
田中陽介が吐き捨てた。
「刑具を用意しておこう」
高橋昊と鈴木亮は、真剣な顔で頷いた。
一方その頃。
佐藤凡は薄手のTシャツ一枚。
靴は片方だけ。
髪はぐちゃぐちゃ。
そんな見るからに哀れな姿で、片足をぴょんぴょん跳ねさせながらケンタッキーの店までやって来ていた。
店の外からガラス越しに店内を見る。
すると、隅の席に花沢小渵が座っているのが見えた。
佐藤凡の視線を感じたのか、花沢小渵がこちらを振り向く。
挨拶しようとして上げかけた小さな手が、途中で止まった。
瞳が縮む。
口がぽかんと開く。
そして、見るからにボロボロになった佐藤凡を、唖然とした表情で見つめる。
佐藤凡はガラス越しに手を振った。
そして、無邪気な笑顔を浮かべる。
「俺は……地獄から這い上がってきた」




