06 恋愛漫画最大のイベントが消しゴム拾いってどういうこと?
「というわけで、こういうわけで、そういうことなんだよ」
佐藤凡は、自分がこんな悲惨な格好になった経緯を花沢小渔に説明し終え、彼女の向かいに座りながら、もはや生きる気力を失ったような顔をしていた。
「君って、ギャグ漫画の主人公か何かなの?」
花沢小渔は思わずそう言った。
ギャグ漫画でもなければ、こんな格好で外に出る人間なんていないだろ。
「もう帰れないよ。帰ったら、あいつら三人にひき肉にされる」
「だいたい小渔が朝っぱらから呼び出したせいだろ。俺はパニーニを二つ食うからな」
花沢小渔はピクリとまぶたを引きつらせたが、それでもスマホを佐藤凡の前へ押し出した。
「じゃあ注文していいよ」
「そんなにいいの? じゃあ遠慮なく!」
佐藤凡は光の速さで画面を操作し、自分用にポークパニーニのセットを二つ注文すると、そのままスマホを花沢小渔へ返した。
「コホン!」
突然、花沢小渔が二度ほど咳払いをした。
いかにも重大発表を始めそうな顔だ。
「この前の勝負、確かに私の負けだった。あなたが二次元の老害……じゃなくて、古参だってことは認めるわ」
佐藤凡は届いたパニーニを頬張りながら、呆れたような目で花沢小渔を見る。
「老資歷じゃなくて古参な。それに、もうとっくに負けを認めてただろ」
「でも!」
花沢小渔は突然、勢いよくテーブルを叩いて立ち上がった。
その瞬間、佐藤凡は気づいた。
立ち上がった花沢小渔は、座っていたときよりもなぜかさらに小さく見える。
視線が自然と下へ向かう。
「……」
花沢小渔の顔が真っ赤になった。
そして何事もなかったかのように、ぴょんと椅子へ戻った。
「で、でも!」
さっきと同じ勢いで続ける。
「アニメをたくさん見ているだけじゃ、本当の古参としての実力があるとは言えないでしょ。ちゃんと作品について自分なりの考察ができてこそ、本物だって証明できるの!」
「お前、回りくどく何を言いたいんだ?」
佐藤凡は頭をかいた。
「まず、あなたは私のアニメ知識を侮っている。次に、私が演劇系の学科で培ってきた専門性を疑っている!」
「俺なんて中間課題、二次元におけるツンデレキャラの『前世と今世』について書いたんだぞ? これでも専門性が足りないっていうのか?」
「うわ……ちょっとキモい」
花沢小渔は露骨に嫌そうな顔をした。
「フッ、俺に反対すればするほど、俺が正しいってことだ」
佐藤凡は得意げに顎を上げた。
「とにかく、第二ラウンドを申し込むわ! 私に勝てたら、あなたを本物の古参として認めてあげる!」
花沢小渔は腕を組んだ。
「なんで俺がお前に認めてもらわなきゃいけないんだよ?」
すると花沢小渔はカバンから一冊の冊子を取り出し、テーブルの上へドンと置いた。
「細かいことはいいから、これを評価して! どんな評価でもいいから! 辛辣でも構わない!」
そこでようやく佐藤凡は、ポンと拳を手のひらに打ちつけた。
「ああ、そういうことか。ここまで回りくどくして、結局これを見てほしかっただけじゃん。何が第二ラウンドだよ」
「普通にお願いすれば見てやったのに、わざわざ挑発してくるなんて。お前、実はツンデレだろ?」
「う、うるさい! いいから早く見て!」
少女の顔が真っ赤になっていることが、何よりの答えだった。
花沢小渔は気まずそうに顔を背け、胸の前で腕を組んだ。
佐藤凡は漫画冊子を手に取った。
どうやら印刷されたものではなく、花沢小渔が自分で描いた漫画らしい。
「全部手描きなのか? タブレットで描いてるのかと思った」
「手描きのほうが創作してるって感じがするから、私はこっちのほうが好きなの。まあ、タブレットも使うけど」
「へえ……タイトルは『少女の心動物語』か。なんか古臭いタイトルだな。一目見ただけで内容がわかる」
表紙には制服姿の少年少女が描かれていた。
教室の中で並んで座り、窓から吹き込んだ風がヒロインの髪を揺らしている。
その視線の先には、窓辺にいる主人公。
「でも、絵はかなり綺麗だな。手描きでここまで描けるのは普通にすごい」
佐藤凡は心から感心して言った。
「ふん。褒めたって何も出ないからね。画力には自信があるんだから」
花沢小渔は得意げに答えた。
表面上は興味なさそうにしているが、声は明らかに弾んでいる。
佐藤凡は一ページ目をめくった。
するといきなり、女子高生がパンをくわえたまま街中を全力疾走していた。
「既視感がすごいな。次のページで転校生のイケメンとぶつかるんじゃないか?」
「な、なんでわかったの!?」
花沢小渔は目を見開いた。
「本当にそうなのかよ。古すぎるだろ」
「別にいいでしょ! 『ニセコイ』だってこういうタイプじゃん!」
花沢小渔が必死に反論する。
佐藤凡は読み進めた。
案の定、二ページ目でヒロインは曲がり角から飛び出し、主人公と正面衝突。
その後はお約束の吐息イベント。
そしてヒロインが、目の前の男子が今日からやってきた転校生だと知る。
しかも席は自分の隣。
「なんか、今までに五十作品くらい同時に読んだ気分だな」
佐藤凡はそうツッコミながらページをめくった。
そして読み進めることしばらく。
およそ百ページある漫画は、あっという間に読み終わった。
「パタン」
佐藤凡は漫画を閉じ、真剣な表情で花沢小渔を見つめた。
その真剣な眼差しを向けられ、花沢小渔は緊張した。
テーブルの下で服の裾を握りしめ、背筋を伸ばす。
「一つ聞きたいことがある」
佐藤凡が口を開いた。
「どうぞ」
花沢小渔は思わず敬語になった。
「この漫画って……」
「恋愛漫画だよな?」
「そ、そうだけど……それがどうしたの?」
「じゃあ、なんで百ページ丸々授業してるんだよ!」
佐藤凡は怒鳴った。
「一学期を通して二人の接点が『消しゴムを拾う』だけってどういうことだよ!」
「ちゃんと恋愛してるじゃん!」
「どこが!?」
「し、してるって……」
花沢小渔が弱々しく答える。
「どこで?」
「最後のページ」
「最後のページ?」
「最後のページ」
佐藤凡はもう一度漫画を開き、最後のページまで一気にめくった。
そして一文字一文字、真剣に読み始める。
やがて、最後のページにある最後のコマ。
そこにようやく、それらしきものを発見した。
主人公がヒロインの消しゴムを拾い上げる。
そして消しゴムにこっそり文字を書いていた。
『好きです! 付き合ってください!』
それを見たヒロインの頭からハートマークが飛び出す。
『喜んで!』
佐藤凡の顔から表情が消えた。
そして静かに漫画を閉じた。
「……じゃあ仮に、これが恋愛だとしよう」
「仮にじゃなくて、本当に恋愛だよ?」
「じゃあ前の百ページは何だったんだ?」
「伏線」
「伏線?」
「伏線」
花沢小渔は力強くうなずいた。
「これ、長期連載作品なのか?」
「短編だけど……」
「伏線じゃねえよ!」
佐藤凡は机を叩いた。
「それはただのページ水増しだろ!」
「誰が消しゴムを拾うためだけに百ページも伏線を張るんだよ!」
「三年間の高校生活を丸々使って、最後の最後に卒業試験の会場で消しゴムを拾うための恋愛って何なんだよ!」
「それに、この百ページのほとんどが意味のないコマじゃん!」
「ヒロインの友達は? 日常生活は? 人間関係は? 全部ないじゃん!」
「あと、学校に鹿を描いてる意味は何なんだよ。インクの無駄だろ」
「この鹿は後で伏線として登場するの!」
花沢小渔が反論する。
「お前の短編、もう完結してるだろ!」
「伏線が回収される場所なんてないんだよ!」
「とにかく、この漫画は意味不明な作品だ。あと二年半修行してこい」
佐藤凡は首を横に振った。
「くっ……!」
花沢小渔は漫画冊子をつかみ、佐藤凡の頭めがけて振り下ろした。
しかし身長差のせいで、佐藤凡にはまったく届かない。
というか、そもそも体にすら触れられない。
「復讐しても成長にはつながらないぞ。人間を成長させるのは学習だけだ」
佐藤凡は悠然と立ち上がり、両手を背中に回す。
片足立ちという謎のポーズまで決めていた。
「じゃあ……どうすればいいのよ」
花沢小渔は完全にしおれたように、机へ突っ伏した。
「実際、絵はすごく上手い。ただ、物語を作る能力が足りないんだと思う」
佐藤凡は慰めるように言った。
「でも大丈夫。その能力がなくても、トップクラスの漫画家になる方法はある」
「本当に?」
花沢小渔が顔を上げる。
「……たぶん」
佐藤凡は頭をかいた。
「嫌い」
「昨日メッセージで言ってたこと、今なら答えられる」
佐藤凡は椅子に座り直し、突然そう言った。
「一緒に漫画を描くって話? あれは適当に言っただけだから、気にしなくていいよ」
「だったら、俺から提案する」
「何を?」
「俺と一緒に漫画を描かないか?」
「お前の画力に、俺のストーリーを組み合わせれば、同人界で一躍有名になれるぞ!」
佐藤凡は自信満々に言った。
「い、いい……」
花沢小渔が承諾しかけたところで、言葉の意味を理解する。
「……って、よくない!」
「まずは全年齢向けからでもいいぞ」
「帰れ!」
「俺の願いを叶えると思って! お願い!」
佐藤凡は両手を合わせ、必死に頭を下げた。
実際のところ、佐藤凡は本当にこの話を面白そうだと思っていた。
二人で物語を作って、漫画を描いて。
自分たちの力で一つの作品を完成させて。
そして、それを同人誌即売会に持っていって売る。
それを想像するだけで、なんだか青春って感じがした。
少なくとも、毎日教室に座って、自分が想像していたものとはまるで違う授業を聞いているよりは、ずっと面白そうだった。
佐藤凡がこの学科を選んだときも、自分ならいつか何かを創り出せるんじゃないかと、本気で夢想していた。
けれど実際に大学へ入ってみると、理想と現実の間には、やっぱり少しばかり距離があった。
いつの間にか、自分がどうしてこの学科を選んだのかさえ、少しずつ忘れかけていた。
でも今。
目の前にある漫画を見ていると、ぼんやりしていたあの頃の気持ちが、再び浮かび上がってきた。
やっぱり、何かを創るって面白い。
もちろん、こんなことを花沢小渔に話すつもりは絶対にない。
もし自分にこんな青春らしい一面があると知られたら、これからどうやって彼女の前で「二次元古参」の威厳を保てばいいんだ?
「そこまで言うなら……わ、わかった」
花沢小渔は小さくうなずいた。
「今回はあなたの勝ち。あなたのこと、認めてあげる」




