19懐古/衝動、花の秘め事
パチン、と音がして切り落とされた前髪がハラハラと青葉の顔から落ちていく。
黒い髪だった破片がビニール袋に吸い込まれていく様を眼球の動きだけで追った。
『前髪、切るよ』
その一言で花音の自宅へ連れてこられた。
花音の突発的な思いつきと有無を言わせない行動力には慣れたもので、1ヶ月も過ぎれば楽しむ余裕すら生まれていた。
前髪を伸ばしていたのは少しでも周囲の視線を気にしないようにするためだったが、不思議と切っても大丈夫だろうという予感があった。
予想通りといえば予想通り、花音は駅直結のコンシェルジュ付きマンションに住んでいて、連れていかれた自室には高そうなスピーカーとCD、古い音楽雑誌が並んでいた。
「ってことは久世誠司って花音のお父さんなの?」
「うん、そう。宮津ってのはお母さんの旧姓よ」
雑誌に載っていた女優の鶴舞はるかが花音に似ていると話したら花音はあっさりとそう答えた。
女優の鶴舞はるかといえば作曲家の久世誠司と電撃結婚して久世誠司にスキャンダルが発覚するとすっぱり離婚、シングルマザーをやりながら女優業もこなす女優として憧れる女性も多い存在だ。
離婚したときにカメラの前で疲労を滲ませながら健気に今後について語る鶴舞はるかは世の中のの同情を引き女優復帰は視聴者から歓迎されていた。
たしかに鶴舞はるかには娘がいるが名前や写真は公開されていない。
「にしてもよくわかったわね。似てる?」
「うーん、似てるっていうか表情がね、似てるってかんじ。顔のパーツは全然似てないよ」
「でしょうね。お母さんに似ないようにしてるから」
鶴舞はるかは黒髪のショートカットに切れ長のいかにもアジア人らしい顔立ちをしている。それでありながら海外の俳優に通用する長身とスラリとした手足の長さをしていて、青葉はモデル時代にポージングの参考にしていた。
「それでその髪が許されてるわけね……」
「そうよ。女優、鶴舞はるかの娘はトップシークレットだもの。学校も折れてくれたわ」
1年の4月から明らかに校則違反の茶髪とパーマが黙認されている謎が解けたわけである。
何より富裕層のご令嬢が多いこの学校で余計な混乱を避けたかったのかもしれない。
久世誠司といえば一時代を築き上げた作曲家だ。全盛期を知らない青葉ですら名前を知っている。そしてその醜聞も。
「別にね、離婚のこととかスキャンダルのことは何とも思ってないのよ。バカだなーとは思うけどその程度。お母さんだって女優復帰するときスキャンダルと醜聞を散々利用したしお互い様だわ」
かつて久世が作曲した曲のCDを拾い上げ花音はポツポツとこぼした。それは青葉に過去のことを話すという単純な行為ではなく自分の内側を見せてくれているようで場違いにも青葉はほのかに喜んでいた。
花音の家庭事情からして両親のことを話せる相手など限られていたはずだ。まして同年代の友人はいないに等しい。
己の傷口をみせる行為はプライドの高い花音が望むところではないはずだ。
信頼を置き、花音が見せたいと思った相手でもなければ花音は最初に青葉が聞いた時点で誤魔化していただろうし。
そんな特別な相手に自分が選ばれたことが嬉しいのである。
「それで花音はよく久世誠司の曲を歌ってるの?」
「父親としては最悪だしバカだって世間は思ってるだろうけど、曲は好きだから影響は受けてると思う」
「なら、青葉の歌がたくさんの人に届いたらお父さんの歌が届くんだろうね。プロデビューなんかしちゃったらさ!」
「……プロ、ね……」
「花音ならできそうじゃない?」
「…………」
「花音?」
「考えておくわ。ほら、目つむってて」
「う、うん」
ハサミがシャカシャカと前髪を切り落としていく。雨音によく似た規則正しいその音が心地よい。
目を閉じていたせいで花音がどんな表情をしていたのかわからないが、きっと優しい顔をしているはずだ。
そんな声をしていた。
「ほら、できたよ。どうです?お客さん」
あぁ、やっぱりそうだ。
鏡を向けて胸を張る花音は、それはそれは可愛く優しい顔をしていた。
「……なんか斜めじゃない?」
「そんなわけないでしょ?ちゃんとみて。…………やっぱりやり直すわ」
「このままでいいから、ここで止めて……」
花音が前髪を切ったことで開かれた視界は、明るく広く、輝いていた。
きっとそう思えるのは花音の微笑んだ顔が青葉の知る人間の顔のなかで最も美しいものであったからだろう。
◇◇◇
一緒に歌おうという誘いは本気だったらしく花音は自分の通うボイストレーニングに青葉を連れていくようになった。
「青葉ってやらせたらなんでもできるわよね」
「そう?」
「まさかこんなに上達すると思わなかった」
「青葉さんはコツを掴むのが早いぶん上達も早いですね。なにより歌に力がありますよ」
トレーナーが花音の言葉に頷きながらそう続いた。
プロの講師もそう言うなら、間違いないのだろう。
褒められると、単純に嬉しい。しかしそれ以上に花音と共に並び立てることが楽しくて仕方がなかった。
「私は楽しんでるだけ。花音が楽しそうに歌うから私も歌うのが楽しいんだ」
「嬉しいこと言うじゃない」
「だって本当のことだし……」
「それなら歌おうよ、もっと!」
花音が歌い出す音に合わせて青葉も音を紡ぐ。歌詞のないメロディーだけの知らない曲だ。花音が気のままに歌っているのだろう。
花音は気分で曲を作って歌い、青葉に合わせろと要求してくる。
強引で、横暴で、それでいて向けられた信頼と甘えが青葉にとっては上質な砂糖菓子のようだった。
暗く鬱々としていた日々が変わっていったのはそれからだった。
なにより人の視線が前ほど気にならなくなった。
というか、花音が青葉を振り回すものだから人の視線を気にしている場合ではなくなったのだ。
日々コロコロと変わる花音の表情と突拍子もない行動から目が離せなかった。
離している時間なんてなかった。
自然と、視線が花音に吸い寄せられるように向いてしまうのだから。
だから周囲の視線を遮断するために伸ばした前髪を切り落としても大丈夫だったのだろう。
後にわかったことだが、花音に連れていかれ、通っていたボイトレ講師はプロの歌手を何人も指導していて、紹介でないと受け入れてすらもらえなかったらしい。
花音との付き合いがなくなった今でも青葉は講師から誘われ指導を受けさせてもらっていた。




