第1話:初夜に、夫は帳簿を持って現れた
没落令嬢エステルが「白い結婚」で嫁いだ初夜、夫が持ってきたのは花束ではなく帳簿でした。妻ではなく“共同代表”として、傾いた魔導灯工房を二人で立て直す再建記のはじまりです。
初夜の寝室に、夫となった人は花束ではなく帳簿を抱えて現れた。
それも一冊ではない。五冊。革表紙の分厚いやつを、婚礼衣装のまま両腕に積み上げて。
「……あの、旦那様?」
「レナールで結構です。夜分に失礼、エステル様。急ぎ、ご相談したい儀がありまして」
彼はそう言うと、寝台には目もくれず、部屋の隅の小さな円卓に帳簿をどんと置いた。燭台を引き寄せ、椅子を二脚並べる。一脚は、どうやら私の分らしい。
なるほど、噂どおり、数字にしか興味のない方らしい。
私、エステル・ラヴォワは今日、この人に嫁いだ。
式は昼に、小さな教会で済ませた。参列は両家あわせて十人足らず。誓いの口づけは頬で、拍手はまばらで、お父様だけが最後まで洟をすすっていた。
相手は新興商家デュラン家の三男、レナール・デュラン。目的は、恋ではない。没落したラヴォワ侯爵家の「家名」と、デュラン家の「お金」の交換──この国で白い結婚と呼ばれる、名ばかりの政略結婚だ。
教会での誓いも形式なら、この初夜も形式。寝室は同じでも、心は他人。それが白い結婚の作法で、私もそのつもりで嫁いできた。
お父様は式のあいだじゅう、私に「すまない」と目で謝っていたけれど、私は別に悲観していない。二年前、婚約者だった伯爵子息に「働く令嬢など恥だ」と婚約を解消された身だ。恋への期待なんて、とっくに在庫切れである。
「相談、と仰いますと」
「結婚の条件の追加です。正確には──提案を」
レナールは円卓の向かいに座り、一枚の書面を差し出した。
婚姻契約書、ではない。表題にはこうあった。
『婚姻契約書 兼 共同経営契約書』
「私が家督代わりに継いだデュラン魔導灯工房は、先代の急逝以来、赤字です。私は販路と数字は読めますが、肝心の意匠──灯りの形を生み出す才がない。工房は職人だけでは回らず、意匠なしでは売り物になりません」
「はあ」
「そこで第二条。エステル様に工房の経営権の半分をお渡しします。あなたは妻ではなく、共同代表として工房に入っていただきたい」
「……私に、働けと?」
「はい」
即答だった。あまりに堂々としているので、笑いそうになってしまった。
「まあ。妻に経営権を半分も? 慎みのないご提案ですこと」
「慎みでは灯りは売れませんので」
「……念のため伺いますけれど、お給金は出ますの」
「共同代表に給金はありません。出るのは配当です。利益の半分」
「赤字のときは?」
「赤字も半分です。共同経営とは、そういうものです」
「まあ。嫁いだ日に借金を半分背負わされる令嬢なんて、聞いたことがありませんわ」
「では、聞いたことのない結婚を始めましょう」
なんて口の減らない。……嫌いではないけれど。
「わたくし、意匠なんて習ったこともありませんけれど」
「嘘ですね」
レナールは眉ひとつ動かさず、私の嫁入り道具の櫃──その一番上に載せてきた、古い画帳を指さした。
「婚礼の荷を検めた際、目録で拝見しました。頁の端が擦り切れるほど描き込まれた図面の束。あれは暇つぶしの水彩画ではない。寸法と工程の入った、職人の図面です」
……見られていた。
あれは、私の恥だ。淑女のたしなみからはみ出した、隠すべき趣味。「働く令嬢など恥」と捨てられた、その原因。
母の形見の画帳に、私が十年、描きためてきたもの。
「拝見しても?」
断る理由を、三つくらい考えた。全部やめて、私は櫃から画帳を出して渡した。この人が今夜はじめて、寝台より私の図面を見たがったからだ。
レナールは頁をめくった。一枚、二枚。手が止まる。
「……この吊り灯、魔石の光を硝子で二度濾している?」
「ええ。魔石の白い光って、硬いでしょう。硝子を色ごとに重ねれば、やわらかくできますの。理屈の上では」
「理屈の上では、原価はどの程度──いや、待ってください。この重ね、量産の工程を二つ削れる。型を分ければ職人の手数が減る。手数が減れば原価が下がる。原価が下がれば価格を据え置いて利幅が──」
早口だった。さっきまで氷みたいだった目が、燭台の火を映して、子どもみたいに光っていた。
「エステル様。あなたは天才ですか。いや、答えなくていい。図面がもう答えている」
「…………」
どうしよう。
生まれて初めて「結婚も悪くない」と思ってしまった。だってこの人、私を飾り棚に置く気が一切ない。
「レナール様。ひとつ伺っても? あなたにとって、この結婚は何ですの」
「取引です」彼は迷わず言った。「愛は約束できません。私にその在庫がないので。ですが配当は約束します。数字は嘘をつきませんから」
「けっこう。では取引相手として申し上げますわ」
私は羽ペンを取り、けれどすぐには署名欄へ下ろさなかった。取引相手の書面は、最後の一条まで読むもの。指先で条文をたどり、第七条で手が止まる。
『一、工房が王室御用達の栄を賜りし暁には、本婚姻の解消を協議するものとする』
「……これは?」
「保険です。工房が頂点に届けば、あなたの家名にも私の資本にも、この結婚はもう不要になる。あなたを縛らないための条項です」
ご丁寧なこと。つまりこの結婚は、成功したら終わるのだ。
ふうん、と思った。胸の奥が少しだけ軋んだ気がしたが、気のせいということにした。それでも私は、羽ペンを署名欄に下ろす。この条項ごと引き受けると決めた、その証に。
「──署名、いたしましたわ。逃げ道つきの契約、しかとお受けします」
レナールが目を見開き、それから、帳簿の表紙を指の背でこつこつ、と二度叩いた。あとで知ったことだが、それは彼が心から納得したときにだけ出る癖だった。
その律儀な癖が、なんだかおかしくて、私は小さく噴き出す。すると、氷みたいだったレナールの口の端も、同じだけ上がっていた。愛のない取引のはずが、利害が噛み合ったその一瞬だけ、二人そろって同じ顔で笑っていた。
「それで、肝心の工房の台所は? 共同代表として、把握しておきませんと」
「それをお見せするために参りました」
レナールは五冊の帳簿の一番下から、一番くたびれた一冊を抜いて、最後の頁を開いた。
私は数字を読んだ。読み直した。三度目に、声が出た。
「──負債、金貨三千枚?」
「借入先は生産ギルド連合の共済金庫。そして期限は三ヶ月後です」
彼は事務的に続けた。
「三ヶ月で工房を黒字に転じ、初回の返済を果たせなければ──工房は、ギルドに差し押さえられます」
初夜の燭台が、じじ、と音を立てた。
私の結婚生活は、蜜月ではなく決算から始まるらしい。
初夜に契約書と負債三千枚。前途多難な共同代表の、初出勤は次話です。工房の職人たち、手強い。
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