第9話「雨音の傘の下」
撮影は中盤に差し掛かり、季節は梅雨に入っていた。
今日は早朝から、都内の廃工場でのロケが行われている。
分厚い灰色の雲が空を覆い、細かい雨が止めどなく降り続いている。
湿気を含んだ空気が、錆と埃の匂いを孕んで鼻腔を突いた。
伊織は折り畳み傘を手に、スタッフ用のテントの下で機材のセッティングを見守っていた。
今回のシーンは、遥斗と桐谷が激しい口論の末に決別するという、物語の大きな転換点だ。
身体的な接触は少ないが、感情のぶつかり合いが極限まで高まる場面であるため、伊織も現場の空気を慎重に測っていた。
「榊さん、これ、監督からです」
アシスタントの女性が、温かいお茶の入った紙コップを手渡してくれた。
伊織は礼を言い、紙コップの熱で冷えた指先を温めた。
「ありがとうございます。雨、強くなってきましたね」
「ええ。この後の屋外でのシーン、決行するみたいですけど、地面が滑りやすくなってるから気をつけてくださいね」
アシスタントがテントを出ていくのと入れ替わりに、三崎監督の声が拡声器を通して響いた。
テスト撮影の開始を告げる合図だ。
伊織は紙コップを置き、モニターの近くへと移動した。
雨に打たれながら対峙する遥斗と桐谷の姿が、画面に映し出される。
二人の演技は、すでに完成の域に達していた。
言葉の応酬、怒りと悲しみが入り混じった視線の交錯。
インティマシー・コーディネーターとしての出番がないほどの、完璧なプロの仕事だ。
テストが終わり、本番前の短い休憩が挟まれた。
スタッフたちが傘を差して機材の雨除けを補強している中、伊織は少し離れた場所にある資材置き場の陰で、今後のスケジュールの確認を行っていた。
「榊さん」
背後から声がかかった。
雨音に紛れて近づいてきたのは、遥斗だった。
彼は劇中の衣装である薄手のモッズコートを着ており、髪も肩も雨に濡れている。
伊織は慌てて持っていた折り畳み傘を開き、彼の方へと差し出した。
「久世さん、濡れますよ。テントに戻って体を温めてください」
伊織が言うと、遥斗は傘の柄を握る伊織の手をじっと見つめた。
「隣に、入ってもいいですか」
傘を持つ伊織の指先が、微かに強張った。
彼はまた、許可を求めてきた。
周囲にスタッフはいるが、皆作業に追われており、この資材置き場の陰に注目している者はいない。
「……傘が小さいので、濡れてしまいますよ」
「構いません」
伊織が「YES」とも「NO」とも言えないでいると、遥斗はゆっくりと伊織の傘の下へと足を踏み入れた。
彼が近づいた瞬間、いつもの香水の匂いは湿気に押しつぶされ、代わりに彼の体温が焦がすような濡れた布の匂いが伊織を包み込んだ。
狭い傘の下で、二人の肩がわずかに触れ合う。
伊織は呼吸を浅くし、傘を持つ手に力を込めた。
「本番前です。集中力を削ぐようなことは……」
「削がれません」
遥斗は前を向いたまま、静かに答えた。
「榊さんが隣にいることで、俺の集中力はむしろ高まります」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
伊織は横目で彼の横顔を盗み見た。
雨に濡れた黒髪が、彼の白い肌に張り付いている。
その端正な横顔は、彫刻のように美しく、そして冷ややかだった。
「佐原さんという方、榊さんの元恋人ですよね」
唐突に投げられた名前に、伊織の思考が数秒間停止した。
佐原とはもう何年も前に別れている。
遥斗がその過去を知っているはずがない。
「……なぜ、その名前を」
「以前、彼が編集室で作業している時に、少しだけ話をする機会がありました。榊さんのことを、よく知っているような口ぶりだったので」
遥斗の声は淡々としていたが、その奥に隠しきれない苛立ちが滲んでいるのを、伊織は感じ取った。
「彼とは、もう終わった関係です。仕事上の付き合いしかありません」
伊織は無意識に、言い訳のような言葉を口にしていた。
遥斗はゆっくりと顔を向け、伊織の目を見つめた。
「終わっていても、彼が榊さんの過去を知っている事実に変わりはない。俺が知らない時間を、彼は知っている」
彼の一重のまぶたが微かに痙攣し、向けられた瞳の奥底で、どろりとした黒い泥のような熱がひたひたと水位を上げていくのがわかった。
優等生俳優の仮面の下に隠された、執着の正体。
伊織は喉に張り付いた唾液を痛みを伴って飲み込み、その熱から目を逸らすことができなかった。
「……久世さん」
「俺は、撮影が終わるまで待つと約束しました」
遥斗は伊織の瞳から視線を外さず、さらに一歩距離を詰めた。
傘の下の空気が、極限まで圧縮される。
「でも、他の誰かが榊さんに近づくのを、黙って見ているつもりはありません」
彼の言葉は、明確な独占欲の表明だった。
相手の境界線を越えないというルールを守りながら、彼は言葉という見えない鎖で伊織を縛り付けようとしている。
「榊さん。俺の顔、触っていいですか」
不意に彼が口にした要求に、伊織は指先から血の気が引くのを感じた。
仕事の確認ではない。
彼自身の感情を鎮めるための、純粋な個人的欲求。
「……駄目です」
伊織は微かに震える声で拒絶した。
「今は仕事中です。それに、私はあなたのものじゃない」
「わかっています」
遥斗は静かに頷き、それ以上距離を詰めることはしなかった。
しかし、その瞳の奥の熱は一向に冷める気配がない。
「今はまだ、俺のものじゃない」
彼はそう言い残し、傘の下から雨の中へと歩み出ていった。
本番開始の合図が響き渡る。
伊織は傘の柄を握りしめたまま、その場から動くことができなかった。
佐原の言葉が、再び脳裏をよぎる。
(言葉にしないと、相手はずっと待たされることになる)
伊織は、自分が本当に恐れているのが何なのか、ようやく理解し始めていた。
彼に踏み込まれることではない。
自分自身が、彼に踏み込みたいと願ってしまうことが恐ろしいのだ。




