第10話「シーツの上の錯覚」
撮影は最終盤を迎え、季節は本格的な夏へと移行していた。
ホテルのスイートルームを借り切ってのロケ。
今日は、このドラマのクライマックスとなる、遥斗と桐谷のベッドシーンの撮影が行われている。
エアコンが効いた室内は、スタッフたちの熱気と機材の放つ熱で、独特の重苦しい空気に満ちていた。
伊織はモニターのすぐ横に立ち、事前の打ち合わせ通りの動きが行われているか、鋭い視線で確認を続けていた。
このシーンは、肉体的な接触だけでなく、感情の交歓を最大限に表現する必要がある。
三崎監督の要求もこれまで以上に高く、テストはすでに何度も繰り返されていた。
「久世君、桐谷君の髪を撫でる時の手つき、もう少しだけためらいを入れてみて。触れたいけど、壊してしまいそうで怖い、っていう葛藤を出してほしいのよ」
三崎監督の指示が飛ぶ。
ベッドの上にいる遥斗は、乱れたシャツの胸元を開けたまま、静かに頷いた。
「わかりました」
彼の声は低く、役柄の深い感情に浸りきっている。
伊織は手元のタブレットを確認した。
髪を撫でる動作は、事前の同意範囲内だ。
ためらいの演技を加えることによる、身体への負担や安全上の問題もない。
「問題ありません。続けてください」
伊織が短くゴーサインを出すと、再びカメラが回り始めた。
遥斗の長い指が、ゆっくりと桐谷の髪に伸びる。
その動作には、監督の要求通り、微かな震えとためらいが表現されていた。
桐谷もそれに応え、目を閉じて遥斗の手を受け入れる。
モニター越しに見るその光景は、網膜を灼くほどに凄艶だった。
伊織は、コーディネーターとしての視点を保ちながらも、遥斗の指先の動きから目を離せなくなっていた。
彼の手が、桐谷の頬を滑り、首筋へと降りていく。
その触れ方は、ひどく慎重で、相手を壊れ物のように扱っている。
まるで、彼自身が相手に触れることの恐ろしさと喜びを、同時に噛み締めているかのように。
遥斗の指先が桐谷の肌に沈み込んだ瞬間、伊織の視界が不意に歪んだ。
レンズ越しの桐谷の身体が、自分自身の輪郭へとすり替わる生々しい錯覚。
強烈な照明の熱が直接肌を焼き、擦れ合うシーツの音が鼓膜を直接震わせる。
遥斗の湿った呼気が、カメラ裏に立つ伊織の首筋に降り注ぐような強烈な共感覚に襲われ、伊織は無意識に喉を鳴らした。
(俺が、榊さんに触れる場合の話です)
(手、触っていいですか)
(俺の顔、触っていいですか)
フラッシュバックする彼の声。
彼はこれまで、伊織に直接触れたことはない。
常に境界線の外側に立ち、許可を求め続けてきた。
しかし今、目の前のモニターの中で、彼は他者に触れている。
その事実が、伊織の胸の奥に、得体の知れない焦燥感を生み出していた。
プロフェッショナルとしての冷静な心理的安全性が、内側からドロドロと溶かされていく。
伊織はタブレットの縁を指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
自分が彼に嫉妬するなど、あってはならないことだ。
自分はただの裏方であり、三ヶ月後には終わる関係だ。
彼が誰に触れようと、伊織には関係のないことのはずだった。
「カット! オッケー、今のすごく良かったわ」
三崎監督の弾んだ声が響き、現場の緊張が一気に解けた。
スタッフたちが拍手を送り、遥斗と桐谷が体を離して一息つく。
伊織はタブレットから視線を外し、深く息を吐き出して呼吸を整えた。
これで、今日予定されていたインティマシーシーンの撮影はすべて終了だ。
残すは、明日のクランクアップのみとなった。
「榊さん」
機材の撤収作業が始まる中、桐谷が伊織の元へ歩いてきた。
彼はバスローブを羽織り、少し疲れたような笑顔を浮かべている。
「お疲れ様です、桐谷さん。素晴らしいシーンでした」
「ありがとう。榊さんの調整のおかげで、安心して演技に集中できたよ」
桐谷は伊織に礼を言うと、少しだけ声を潜めた。
「でも、今日は本当に疲れました。久世君の集中力、尋常じゃなくて」
「何か、事前の取り決めと違う接触がありましたか?」
伊織がプロの顔で尋ねると、桐谷は首を横に振った。
「ううん、動きは完璧だったよ。ただ、あいつの目がさ」
桐谷はチラリと、遠くでマネージャーと話している遥斗の方を見た。
「俺を見てるのに、俺を見てないっていうか。誰か別の人を通して俺に触れてるような、そんな感覚があったんだよね」
伊織の指先が、冷たく強張った。
桐谷の言葉は、伊織がモニター越しに感じていた幻覚を、正確に言語化していた。
「……それは、役作りによるものでしょう」
伊織はどうにか声を絞り出し、平静を装った。
「そうかな。まあ、結果的にいいシーンになったからいいんだけど」
桐谷はそれ以上深くは追求せず、スタッフに呼ばれて去っていった。
伊織は一人その場に取り残され、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。
遥斗が、誰を通して演技をしていたのか。
考えるまでもないことだった。
彼はカメラの前で桐谷に触れながら、その先にいる伊織を抱きしめていたのだ。
演技というフィルターを通して、伊織の境界線を内側から侵食し続けていた。
(撮影が終わるまで待ちます)
その期限は、明日だ。
明日、すべての仕事が終わった時、彼からの問いかけにどう答えるべきか。
伊織の心は、プロフェッショナルとしての理性と、彼に惹かれ始めている感情との間で、千切れそうなほどに葛藤していた。




