第11話「保留の終わりと境界の消失」
夏の日差しがアスファルトを焼き付ける中、三ヶ月に及ぶ撮影はついに最終日を迎えた。
都内のスタジオで最後のシーンの撮影が終わり、「オールアップです!」という三崎監督の声が響き渡った。
その瞬間、スタジオ内は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
スタッフたちが花束を抱えて駆け寄り、主演の二人に手渡していく。
桐谷は満面の笑みで花束を受け取り、周囲のスタッフと抱擁を交わしている。
一方の遥斗は、穏やかな微笑みを浮かべながら丁寧に頭を下げ、スタッフ一人一人に労いの言葉をかけていた。
伊織は喧騒から少し離れた壁際に立ち、その光景を静かに見つめていた。
インティマシー・コーディネーターとしての彼の役目は、これで終了した。
大きな事故もトラブルもなく、無事にすべての撮影を終えられたことに、プロとしての深い安堵を覚える。
しかし、その安堵のすぐ裏側には、鉛のように重い焦燥感が張り付いていた。
撮影が終わった。
それはつまり、彼が設定した「期限」が訪れたことを意味している。
「榊さん、お疲れ様でした」
不意に声をかけられ、伊織は視線を向けた。
振り向くと、柴田美月が立っていた。
彼女の表情は、いつもの厳しいマネージャーの顔から、少しだけ柔らかく解けている。
「柴田さん。お疲れ様でした。無事に終わって何よりです」
「ええ。榊さんには、本当に助けられました。久世も、桐谷さんも、あなたのおかげで最高のパフォーマンスを発揮できたと思います」
柴田は深く一礼し、伊織の顔を真っ直ぐに見つめた。
「これで、あなたの仕事は終わりですね」
その言葉には、明らかな含みがあった。
伊織は小さく息を吸い込み、頷いた。
「はい。私の役目は、ここまでです」
「そうですか」
柴田はそれ以上踏み込むことはせず、再び短い会釈をして遥斗の方へと歩いていった。
伊織は壁から背中を離し、機材の片付けが始まったスタジオを後にした。
今夜は、近くのホテルで大規模な打ち上げが予定されている。
しかし、伊織の心はすでにそこにはなかった。
打ち上げが終われば、彼と顔を合わせる理由も、彼を拒絶する「仕事」という大義名分も、すべて消滅する。
その時、自分は何と答えればいいのか。
ホテルの一室に荷物を置き、シャワーを浴びてから打ち上げの会場へと向かった。
会場はすでに大勢のスタッフと関係者で熱気に満ちていた。
伊織はグラスを片手に、なるべく目立たないように壁際を移動し、関係者への挨拶を手早く済ませた。
遥斗は会場の中心で、常に数人のスタッフに囲まれていた。
彼は誰に対しても等しく丁寧に接し、優等生俳優としての完璧な振る舞いを崩さない。
しかし、その視線が時折、会場の隅にいる伊織を探すように彷徨うのを、伊織は確かに感じ取っていた。
視線が交差するたびに、伊織はグラスに口をつけ、逃げるように目を逸らした。
二時間ほどが経過し、中締めの挨拶が行われた。
それを潮時に、伊織は静かに会場を抜け出した。
これ以上、あの重い熱情を孕んだ視線に晒され続けるのは限界だった。
深夜の街は、昼間の熱気をわずかに残しながらも、静けさを取り戻していた。
伊織はネクタイを緩め、ホテルへ向かう夜道を一人歩き始めた。
街灯の光が、アスファルトに長い影を落とす。
佐原に言われた言葉が、またしても脳裏に蘇る。
(相手はずっと待たされることになるんだからな)
自分は、彼を待たせている。
その罪悪感と、踏み込むことへの恐怖が、伊織の足取りを重くしていた。
「榊さん」
背後から、静かで、しかし確かな意志を持った声が響いた。
伊織の足がピタリと止まる。
振り返らなくてもわかる。
彼だ。
伊織がゆっくりと振り返ると、数メートル離れた街灯の下に、久世遥斗が立っていた。
彼は打ち上げの時と同じ黒いスーツ姿で、少し息を乱している。
「……打ち上げは、どうしたんですか」
伊織はどうにか声を絞り出し、平静を装おうとした。
「抜け出してきました。榊さんがいなくなったので」
遥斗はそれだけ言うと、伊織の方へとゆっくり歩み寄ってきた。
彼が近づくにつれて、夜の空気が極限まで圧縮されていくように感じる。
遥斗は伊織から一メートルほどの距離で立ち止まった。
触れるには遠く、言葉を交わすには近すぎる、絶妙な距離感。
「撮影は、終わりました」
遥斗の黒い瞳が、伊織の目を真っ直ぐに射抜いた。
その視線から逃げることは、もう許されない。
「俺は約束通り、三ヶ月間待ちました。榊さんの仕事の邪魔は一切していないつもりです」
「ええ。あなたは、完璧でした」
伊織の言葉に、遥斗は微かに顎を引いた。
「もう一度、聞きます」
彼は一歩、伊織の方へ足を踏み出した。
「榊さん。俺と、付き合ってください」
夜の静寂の中に、彼の言葉だけが重く響いた。
仕事という境界線は、もう存在しない。
残されているのは、伊織自身の純粋な意思だけだ。
「嫌なら言って」と人に教える仕事をしておきながら、自分は好きだと口にすることができない。
その矛盾を抱えたまま、この三ヶ月間、彼に甘え続けてきたのだ。
伊織は、ゆっくりと息を吐き出した。
そして、彼から視線を逸らさずに、唇を開いた。




