第12話「いちいち聞かなくていい」
夜の街路には、遠くを走る車の走行音だけが微かに響いていた。
街灯のオレンジ色の光が、遥斗の真剣な表情を照らし出している。
伊織は、自身の内側で何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じていた。
それは、彼が長年守り続けてきた「察してほしい」という逃げの姿勢であり、傷つくことを恐れる自己防衛の境界線だった。
三ヶ月間、遥斗は決して境界線を越えなかった。
彼が待ってくれたからこそ、伊織はこの重い感情と正面から向き合う猶予を与えられたのだ。
「……はい」
伊織の口からこぼれ落ちたのは、かすれそうなほど小さな、しかし明確な肯定の言葉だった。
遥斗は一瞬だけ目を見開き、次いで、張り詰めていた空気を解くように、微かに口角を上げた。
それは、カメラの前で見せる完璧な微笑みではなく、年相応の青年が安堵と喜びを噛み締めるような、脆く美しい表情だった。
「本当ですか」
「嘘をついて、あなたをからかうような趣味はありません」
伊織が少しだけぶっきらぼうに返すと、遥斗は小さく息を吐き出した。
そして、ゆっくりと伊織との距離を詰めてくる。
一メートルあった距離が、五十センチになり、三十センチになり、ついに互いの体温を感じ取れるほどの近さになった。
遥斗の黒い瞳が、伊織の目を至近距離で捉える。
夜の湿気を含んだ微かなアルコールの匂いと、彼自身の体温が混ざり合って鼻腔をくすぐった。
「榊さん」
遥斗の声は、夜の空気に溶け込むほど低く、甘かった。
伊織は呼吸を細くし、彼の次の行動を待った。
この距離なら、彼はいつでも伊織を抱きしめることができる。
だが、遥斗は両手を体の横に下ろしたまま、動こうとしない。
「キスしていいですか」
その問いかけに、伊織は思わず目を丸くした。
三ヶ月間、あれほど執着を見せ、告白の返事まで取り付けたというのに、彼はまだ確認を求めてくるのだ。
相手の境界線を、本人の同意なしには絶対に越えない。
その徹底した誠実さと、不器用なまでの執着が、今の伊織にはひどく愛おしく思えた。
「……それはもう、いちいち聞かなくていいです」
伊織は苦笑交じりに、半ば呆れたような声で言った。
恋人関係になろうと合意した直後なのだ。
ここから先は、同意という名の手続きを省略してもいいはずだ。
しかし、遥斗は首を横に振った。
「嫌です。聞きたい」
「なぜですか」
「あなたが『いい』って言うの、好きなので」
遥斗の言葉は、恐ろしいほどの独占欲に満ちていた。
彼にとって「許可を求める」という行為は、単なるマナーではない。
伊織自身の口から肯定の言葉を引き出し、その意思を完全に掌握するための、彼なりの儀式なのだ。
それを理解した瞬間、伊織の全身の皮膚が微かに粟立った。
優等生俳優の仮面の下にある、圧倒的な重さ。
彼に同意を与え続ける限り、自分は二度とこの引力から逃れられないだろう。
伊織は小さく息を吸い込み、彼の瞳を見つめ返した。
「……いいですよ」
その言葉が夜気に溶けた瞬間、遥斗の手が伊織の頬を包み込んだ。
少し乾燥した手のひらの感触と、高い体温が伝わってくる。
遥斗の顔がゆっくりと近づき、街灯の光が彼のまつ毛に遮られた。
唇が重なる。
事前の打ち合わせも、カメラのレンズも存在しない、純粋な個人的接触。
触れ合いはひどく慎重で、まるで伊織の反応を一つ一つ確かめるかのようだった。
伊織がわずかに唇を開くと、遥斗は深く息を吸い込み、さらに強く押し入ってきた。
それは、三ヶ月間押し殺してきた彼の渇望が、一気に堰を切って溢れ出したような、熱く、重い口づけだった。
伊織は遥斗の背中に腕を回し、その熱に身を委ねた。
「察してほしい」と逃げてきた自分が、彼に明確な意思を示したことで、この関係を手に入れた。
仕事という境界線は消失し、ただ二人だけの時間が夜の街に溶けていく。
長い口づけの後、遥斗はゆっくりと唇を離した。
彼の瞳は、満足感と、さらに深い飢餓感を同時に宿していた。
「手、繋いでもいいですか」
彼がまた問いかけてくる。
伊織は小さく笑い、自分の右手を彼に差し出した。
「はい。どうぞ」
遥斗は伊織の指に自分の指を絡め、強く握りしめた。
二人は繋いだ手を隠すこともなく、並んで夜道を歩き始めた。
インティマシー・コーディネーターと主演俳優。
その肩書きを脱ぎ捨てた二人の、新しい関係の始まりだった。




