第13話「踏み越えた先の熱」
夜の湿気を帯びた空気が、二人の間を静かにすり抜けていく。
繋がれた右手からは、微かな汗と、高い体温が絶え間なく流れ込んできた。
伊織は、自分の足がアスファルトを踏みしめる感覚すら、どこか遠い出来事のように感じていた。
街灯の光が、二人の長い影を舗道に落としては、また次の光の中へと溶かしていく。
三ヶ月間、カメラの裏側で厳重に守り続けてきた境界線は、先程の口づけによって呆気なく瓦解した。
インティマシー・コーディネーターと、主演俳優。
その肩書きを脱ぎ捨てた今、二人の間を遮るものは何一つ存在しない。
遥斗の歩幅は、以前海沿いの道を歩いた時と同じように、伊織のペースに正確に合わせられていた。
ただ一つ違うのは、彼の長い指が、伊織の指の間に深く入り込み、決して離さないとばかりに固く絡みついていることだ。
その拘束力は、痛みを感じる一歩手前の、心地よい重さを持っていた。
繁華街の喧騒から離れたホテルまでの道のりは、深夜ということもあり人影がまばらだった。
時折すれ違う酔客も、黒いスーツ姿で手を繋ぐ二人の男に、あえて視線を向けることはない。
遥斗は前を向いたまま、何も言葉を発しなかった。
しかし、繋いだ手を通じて伝わってくる彼の脈拍は、伊織自身のそれと同じように、わずかに速かった。
彼もまた、この新しい関係の始まりに、静かな高揚感を抱いているのだ。
やがて、伊織が滞在しているホテルのエントランスが見えてきた。
自動ドアの先には、白を基調とした明るいロビーが広がっている。
伊織は、繋がれた右手にわずかに力を込めた。
ロビーに入れば、ホテルの従業員や、他の宿泊客の目がある。
その意図を察したのか、遥斗は自動ドアを通り抜ける直前で、ゆっくりと伊織の指から自分の指を解いた。
離れていく体温に、伊織は無意識に指先を丸めた。
二人は適度な距離を保ち、並んでロビーを横切った。
深夜のフロントには一人のスタッフが立っているだけで、静まり返っている。
エレベーターホールに到着し、伊織が上りのボタンを押した。
金属製の扉の表面に、二人の姿がぼんやりと反射している。
到着を知らせる電子音が鳴り、扉が静かに開いた。
箱の中には誰もいなかった。
伊織が先に乗り込み、遥斗がその後に続く。
伊織が自分の部屋がある階層のボタンを押し、扉が閉まると、密閉された空間に再び二人きりになった。
エレベーターが上昇していく微かな振動が、足の裏から伝わってくる。
デジタル表示の数字が、一つずつ増えていく。
遥斗は扉の方を向いたまま、静かに口を開いた。
「部屋の前まで、送ります」
その声は、ロビーでの沈黙を取り繕うかのように、ひどく穏やかだった。
伊織は背中を壁に預け、彼の広い背中を見つめた。
部屋の前まで送る。
それはつまり、そこで引き返すという意味だ。
三ヶ月間待ち続けた末に、ようやく恋人という関係を手に入れたばかりだというのに、彼はまだ伊織のペースを尊重し、無理に踏み込もうとはしない。
その徹底した誠実さが、伊織の胸の奥を静かに締め付けた。
佐原に言われた言葉が、またしても伊織の脳裏を過る。
自分から言葉にしなければ、相手はずっと待たされることになる。
相手の境界線を越えない彼に対して、伊織が「察してほしい」という態度を取り続ければ、二人の関係は永遠に平行線を辿るだけだ。
答えを出したのは、他でもない伊織自身なのだ。
ならば、彼が踏み込んでくるのを待つのではなく、自分から扉を開かなければならない。
エレベーターが停止し、扉が開いた。
長い廊下には、等間隔に配置されたダウンライトが柔らかい光を落としている。
厚い絨毯が、二人の足音を吸い込んでいく。
伊織の部屋は、廊下の中央付近にあった。
カードキーを取り出し、ドアノブの上にあるセンサーにかざす。
短い電子音が鳴り、鍵が解除された。
伊織はドアノブに手をかけたまま、振り返った。
遥斗は、伊織から一歩下がった位置で立ち止まっていた。
彼は小さく微笑み、伊織の目を見つめる。
「おやすみなさい、伊織さん」
名前の呼び方が変わっていることに、伊織は少しだけ呼吸を乱した。
彼が踵を返しそうになるのを、伊織の言葉が引き留める。
「久世さん」
伊織の声は、静かな廊下に吸い込まれるように小さかった。
しかし、遥斗はその声に即座に反応し、動きを止めた。
伊織はドアを少しだけ押し開き、室内の暗闇を背にして、遥斗を見つめ返した。
喉が渇いていた。
それでも、言葉にしなければ伝わらない。
「入って、いきませんか」
それは、伊織の三十五年間の中で、最も勇気を振り絞った一言だった。
自分の内側へと、他者を明確に招き入れる言葉。
遥斗の瞳が、驚きに見開かれた。
彼は数秒間、伊織の顔を瞬きもせずに見つめ、やがてその意味を正確に咀嚼したように、深く息を吐き出した。
彼が再び伊織の方へ足を踏み出す。
一歩、また一歩と距離が縮まり、ダウンライトの光が彼の端正な顔の輪郭を浮き彫りにする。
「……いいんですか」
彼の声は、微かに掠れていた。
「嫌なら、誘いません」
伊織が短く答えると、遥斗の唇の端が微かに持ち上がった。
伊織が中に入り、ドアを押さえて彼を迎え入れる。
遥斗が室内に足を踏み入れ、背後で重いドアが閉まった。
オートロックの金属音が、外の世界との繋がりを断ち切る。
室内は、昼間に閉め切られていたせいで、少しだけ空気が淀んでいた。
カードキーをスロットに差し込んでから壁のスイッチを押し、メインの照明を点灯させる。
エアコンも低い駆動音を立てて動き始めた。
ビジネスホテルよりも少しだけ広い、シングルルーム。
ベッドと、小さなテーブル、一人掛けのソファがあるだけの簡素な空間だ。
「適当に座ってください。お茶か、ミネラルウォーターしかありませんが」
伊織が冷蔵庫の方へ向かおうとすると、背後から腕を掴まれた。
強い力ではなかったが、確かな拘束力を持った指先。
振り返ると、遥斗がすぐ背後に立っていた。
彼の体温が、衣服越しに伝わってくる。
「お茶は、いりません」
遥斗は伊織の腕を引いた。
伊織の身体がバランスを崩し、彼の胸元へと引き寄せられる。
スーツの生地が擦れ合う音が、静かな部屋に響いた。
「伊織さん」
彼の声が、すぐ耳元で落ちる。
「抱きしめても、いいですか」
まただ。
彼はもう、部屋の中にまで入り込んでいるというのに、まだ伊織の許可を求めてくる。
その不器用で真っ直ぐな執着が、伊織の中の何かを完全に溶かしていった。
「……だから、いちいち聞かなくていいと言ったでしょう」
「俺が、聞きたいんです。あなたが答えてくれるのが、好きだから」
遥斗の腕が、伊織の背中に回り、ゆっくりと力を込めていく。
伊織は抵抗することなく、彼の手を受け入れ、自身の腕を彼の背中へと回した。
二人の身体が、隙間なく密着する。
彼の心音と、伊織の心音が、重なり合って一つのリズムを刻み始めた。
「三ヶ月間、長かったです」
遥斗が、伊織の肩口に顔を埋めながら呟いた。
その響きには、演技ではない、彼自身の素の感情が剥き出しになっていた。
「待たせて、悪かったです」
「謝らないでください。俺が勝手に待っていただけですから」
遥斗の腕の力が、さらに強くなる。
伊織は彼の背中を撫でながら、自分の中に芽生えた感情の形を、ようやく正確に認識することができた。
仕事の顔で逃げていたわけではない。
彼に惹かれていく自分を、必死に抑え込んでいただけなのだ。
「久世さん」
「はい」
「私も、あなたのことが好きです」
伊織がその言葉を口にした瞬間、遥斗の身体が微かに震えた。
彼は伊織から体を離し、信じられないものを見るような目で伊織を見つめた。
その瞳の奥で、押さえ込まれていた熱情が一気に燃え上がるのがわかった。
遥斗の手が、伊織の頬を包み込む。
「……もう一回、言っていいですか」
「何をですか」
「キスして、いいですか」
伊織は小さく吹き出し、彼の首に腕を絡めた。
「どうぞ」
その直後、視界が反転した。
遥斗の力強い腕に抱え上げられ、そのままベッドへと押し倒される。
沈み込むスプリングの音。
覆い被さってくる彼の重み。
微かなアルコールと、彼自身の首筋から立ち昇る若く青い熱の匂いが、逃げ場のない距離で伊織を包み込んだ。
遥斗の指先が、伊織のシャツの第一ボタンに触れる。
「脱がせても、いいですか」
ひどく甘く、それでいて有無を言わせない響きを持った問いかけ。
伊織が小さく頷くと、彼は丁寧に、だが確かな独占欲を伴って布地を剥ぎ取っていく。
素肌が空気に触れた瞬間、遥斗の手のひらが伊織の胸元を滑った。
ひるむような熱さと、少し乾燥した指先の感触に、伊織の喉から予期せぬ甘い音が漏れる。
「俺に触れられて、どう感じていますか」
遥斗の顔が首筋に埋められ、熱い吐息が皮膚を這う。
伊織はシーツを強く握りしめ、熱に霞む頭でどうにか思考を繋ぎ止めようとした。
しかし、遥斗はそれを許さない。
顔を上げた彼は、暗く沈んだ瞳で伊織を射抜いた。
「言葉で、答えてください。俺の手に、応えてくれますか」
言葉にすれば、何かが決定的に壊れてしまう。
その恐怖で築き上げてきた防衛壁を、遥斗は逃げ場のない熱情で容赦なく打ち砕きにかかっていた。
伊織が声を出せずにいると、遥斗の腕の力がさらに執拗さを増す。
背筋を痺れが駆け上がり、視界の端が白く明滅した。
「言って、伊織さん。あなたが声を出してくれないと、俺は不安になる」
相手の境界線を尊重するという大義名分を被った、純粋な狂気。
ベッドの上でさえ、彼は執拗に「YES」を求め続ける。
伊織の口から肯定の言葉を引きずり出し、退路を断ち切るための儀式。
高鳴る鼓動と羞恥で息ができなくなり、伊織の目から生理的な涙が滲んだ。
三十五年間守り続けてきた理性が、彼のもたらす熱の濁流に飲み込まれていく。
「……っ、あ……」
掠れた声が漏れた瞬間、遥斗の腕が伊織の身体を強く抱きすくめた。
伊織の背中が大きく反り、シーツに爪を立てる。
「いいですよ。そのまま、あなたの声を聞かせて」
「……や、もう、」
伊織の中で、プロフェッショナルとしての理性が崩れ去った。
残されたのは、ただ彼に組み敷かれ、剥き出しの感情に溺れる一人の男の姿だけだった。
「いちいち、聞くな……俺は、」
無意識のうちに漏れ出た一人称。
素の男の顔が露わになった瞬間、遥斗の瞳の奥で何かが決定的に弾けた。
彼は満足げに、そしてひどく凶暴に微笑むと、伊織の唇を塞いだ。
そこから先の時間は、言葉による確認など必要のない、濃密で甘い熱の中へと溶けていった。




