↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インティマシー・コーディネーターの俺に、人気俳優が毎回「触っていいですか」と聞いてくる件~同意しか求めない年下の執着が重すぎる~  作者: 月夜 闇花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/16

第13話「踏み越えた先の熱」

 夜の湿気を帯びた空気が、二人の間を静かにすり抜けていく。

 繋がれた右手からは、微かな汗と、高い体温が絶え間なく流れ込んできた。

 伊織は、自分の足がアスファルトを踏みしめる感覚すら、どこか遠い出来事のように感じていた。

 街灯の光が、二人の長い影を舗道に落としては、また次の光の中へと溶かしていく。

 三ヶ月間、カメラの裏側で厳重に守り続けてきた境界線は、先程の口づけによって呆気なく瓦解《がかい》した。

 インティマシー・コーディネーターと、主演俳優。

 その肩書きを脱ぎ捨てた今、二人の間を遮るものは何一つ存在しない。

 遥斗の歩幅は、以前海沿いの道を歩いた時と同じように、伊織のペースに正確に合わせられていた。

 ただ一つ違うのは、彼の長い指が、伊織の指の間に深く入り込み、決して離さないとばかりに固く絡みついていることだ。

 その拘束力は、痛みを感じる一歩手前の、心地よい重さを持っていた。

 繁華街の喧騒から離れたホテルまでの道のりは、深夜ということもあり人影がまばらだった。

 時折すれ違う酔客も、黒いスーツ姿で手を繋ぐ二人の男に、あえて視線を向けることはない。

 遥斗は前を向いたまま、何も言葉を発しなかった。

 しかし、繋いだ手を通じて伝わってくる彼の脈拍は、伊織自身のそれと同じように、わずかに速かった。

 彼もまた、この新しい関係の始まりに、静かな高揚感を抱いているのだ。

 やがて、伊織が滞在しているホテルのエントランスが見えてきた。

 自動ドアの先には、白を基調とした明るいロビーが広がっている。

 伊織は、繋がれた右手にわずかに力を込めた。

 ロビーに入れば、ホテルの従業員や、他の宿泊客の目がある。

 その意図を察したのか、遥斗は自動ドアを通り抜ける直前で、ゆっくりと伊織の指から自分の指を解いた。

 離れていく体温に、伊織は無意識に指先を丸めた。

 二人は適度な距離を保ち、並んでロビーを横切った。

 深夜のフロントには一人のスタッフが立っているだけで、静まり返っている。

 エレベーターホールに到着し、伊織が上りのボタンを押した。

 金属製の扉の表面に、二人の姿がぼんやりと反射している。

 到着を知らせる電子音が鳴り、扉が静かに開いた。

 箱の中には誰もいなかった。

 伊織が先に乗り込み、遥斗がその後に続く。

 伊織が自分の部屋がある階層のボタンを押し、扉が閉まると、密閉された空間に再び二人きりになった。

 エレベーターが上昇していく微かな振動が、足の裏から伝わってくる。

 デジタル表示の数字が、一つずつ増えていく。

 遥斗は扉の方を向いたまま、静かに口を開いた。


「部屋の前まで、送ります」


 その声は、ロビーでの沈黙を取り繕うかのように、ひどく穏やかだった。

 伊織は背中を壁に預け、彼の広い背中を見つめた。

 部屋の前まで送る。

 それはつまり、そこで引き返すという意味だ。

 三ヶ月間待ち続けた末に、ようやく恋人という関係を手に入れたばかりだというのに、彼はまだ伊織のペースを尊重し、無理に踏み込もうとはしない。

 その徹底した誠実さが、伊織の胸の奥を静かに締め付けた。

 佐原に言われた言葉が、またしても伊織の脳裏を過る。

 自分から言葉にしなければ、相手はずっと待たされることになる。

 相手の境界線を越えない彼に対して、伊織が「察してほしい」という態度を取り続ければ、二人の関係は永遠に平行線を辿るだけだ。

 答えを出したのは、他でもない伊織自身なのだ。

 ならば、彼が踏み込んでくるのを待つのではなく、自分から扉を開かなければならない。

 エレベーターが停止し、扉が開いた。

 長い廊下には、等間隔に配置されたダウンライトが柔らかい光を落としている。

 厚い絨毯が、二人の足音を吸い込んでいく。

 伊織の部屋は、廊下の中央付近にあった。

 カードキーを取り出し、ドアノブの上にあるセンサーにかざす。

 短い電子音が鳴り、鍵が解除された。

 伊織はドアノブに手をかけたまま、振り返った。

 遥斗は、伊織から一歩下がった位置で立ち止まっていた。

 彼は小さく微笑み、伊織の目を見つめる。


「おやすみなさい、伊織さん」


 名前の呼び方が変わっていることに、伊織は少しだけ呼吸を乱した。

 彼が踵を返しそうになるのを、伊織の言葉が引き留める。


「久世さん」


 伊織の声は、静かな廊下に吸い込まれるように小さかった。

 しかし、遥斗はその声に即座に反応し、動きを止めた。

 伊織はドアを少しだけ押し開き、室内の暗闇を背にして、遥斗を見つめ返した。

 喉が渇いていた。

 それでも、言葉にしなければ伝わらない。


「入って、いきませんか」


 それは、伊織の三十五年間の中で、最も勇気を振り絞った一言だった。

 自分の内側へと、他者を明確に招き入れる言葉。

 遥斗の瞳が、驚きに見開かれた。

 彼は数秒間、伊織の顔を瞬きもせずに見つめ、やがてその意味を正確に咀嚼《そしゃく》したように、深く息を吐き出した。

 彼が再び伊織の方へ足を踏み出す。

 一歩、また一歩と距離が縮まり、ダウンライトの光が彼の端正な顔の輪郭を浮き彫りにする。


「……いいんですか」


 彼の声は、微かに掠れていた。


「嫌なら、誘いません」


 伊織が短く答えると、遥斗の唇の端が微かに持ち上がった。

 伊織が中に入り、ドアを押さえて彼を迎え入れる。

 遥斗が室内に足を踏み入れ、背後で重いドアが閉まった。

 オートロックの金属音が、外の世界との繋がりを断ち切る。

 室内は、昼間に閉め切られていたせいで、少しだけ空気が淀んでいた。

 カードキーをスロットに差し込んでから壁のスイッチを押し、メインの照明を点灯させる。

 エアコンも低い駆動音を立てて動き始めた。

 ビジネスホテルよりも少しだけ広い、シングルルーム。

 ベッドと、小さなテーブル、一人掛けのソファがあるだけの簡素な空間だ。


「適当に座ってください。お茶か、ミネラルウォーターしかありませんが」


 伊織が冷蔵庫の方へ向かおうとすると、背後から腕を掴まれた。

 強い力ではなかったが、確かな拘束力を持った指先。

 振り返ると、遥斗がすぐ背後に立っていた。

 彼の体温が、衣服越しに伝わってくる。


「お茶は、いりません」


 遥斗は伊織の腕を引いた。

 伊織の身体がバランスを崩し、彼の胸元へと引き寄せられる。

 スーツの生地が擦れ合う音が、静かな部屋に響いた。


「伊織さん」


 彼の声が、すぐ耳元で落ちる。


「抱きしめても、いいですか」


 まただ。

 彼はもう、部屋の中にまで入り込んでいるというのに、まだ伊織の許可を求めてくる。

 その不器用で真っ直ぐな執着が、伊織の中の何かを完全に溶かしていった。


「……だから、いちいち聞かなくていいと言ったでしょう」


「俺が、聞きたいんです。あなたが答えてくれるのが、好きだから」


 遥斗の腕が、伊織の背中に回り、ゆっくりと力を込めていく。

 伊織は抵抗することなく、彼の手を受け入れ、自身の腕を彼の背中へと回した。

 二人の身体が、隙間なく密着する。

 彼の心音と、伊織の心音が、重なり合って一つのリズムを刻み始めた。


「三ヶ月間、長かったです」


 遥斗が、伊織の肩口に顔を埋めながら呟いた。

 その響きには、演技ではない、彼自身の素の感情が剥き出しになっていた。


「待たせて、悪かったです」


「謝らないでください。俺が勝手に待っていただけですから」


 遥斗の腕の力が、さらに強くなる。

 伊織は彼の背中を撫でながら、自分の中に芽生えた感情の形を、ようやく正確に認識することができた。

 仕事の顔で逃げていたわけではない。

 彼に惹かれていく自分を、必死に抑え込んでいただけなのだ。


「久世さん」


「はい」


「私も、あなたのことが好きです」


 伊織がその言葉を口にした瞬間、遥斗の身体が微かに震えた。

 彼は伊織から体を離し、信じられないものを見るような目で伊織を見つめた。

 その瞳の奥で、押さえ込まれていた熱情が一気に燃え上がるのがわかった。

 遥斗の手が、伊織の頬を包み込む。


「……もう一回、言っていいですか」


「何をですか」


「キスして、いいですか」


 伊織は小さく吹き出し、彼の首に腕を絡めた。


「どうぞ」


 その直後、視界が反転した。

 遥斗の力強い腕に抱え上げられ、そのままベッドへと押し倒される。

 沈み込むスプリングの音。

 覆い被さってくる彼の重み。

 微かなアルコールと、彼自身の首筋から立ち昇る若く青い熱の匂いが、逃げ場のない距離で伊織を包み込んだ。

 遥斗の指先が、伊織のシャツの第一ボタンに触れる。


「脱がせても、いいですか」


 ひどく甘く、それでいて有無を言わせない響きを持った問いかけ。

 伊織が小さく頷くと、彼は丁寧に、だが確かな独占欲を伴って布地を剥ぎ取っていく。

 素肌が空気に触れた瞬間、遥斗の手のひらが伊織の胸元を滑った。

 ひるむような熱さと、少し乾燥した指先の感触に、伊織の喉から予期せぬ甘い音が漏れる。


「俺に触れられて、どう感じていますか」

 遥斗の顔が首筋に埋められ、熱い吐息が皮膚を這う。

 伊織はシーツを強く握りしめ、熱に霞む頭でどうにか思考を繋ぎ止めようとした。

 しかし、遥斗はそれを許さない。

 顔を上げた彼は、暗く沈んだ瞳で伊織を射抜いた。


「言葉で、答えてください。俺の手に、応えてくれますか」

 言葉にすれば、何かが決定的に壊れてしまう。

 その恐怖で築き上げてきた防衛壁を、遥斗は逃げ場のない熱情で容赦なく打ち砕きにかかっていた。

 伊織が声を出せずにいると、遥斗の腕の力がさらに執拗さを増す。

 背筋を痺れが駆け上がり、視界の端が白く明滅した。


「言って、伊織さん。あなたが声を出してくれないと、俺は不安になる」

 相手の境界線を尊重するという大義名分を被った、純粋な狂気。

 ベッドの上でさえ、彼は執拗《しつよう》に「YES」を求め続ける。

 伊織の口から肯定の言葉を引きずり出し、退路を断ち切るための儀式。

 高鳴る鼓動と羞恥で息ができなくなり、伊織の目から生理的な涙が滲んだ。

 三十五年間守り続けてきた理性が、彼のもたらす熱の濁流に飲み込まれていく。


「……っ、あ……」

 掠れた声が漏れた瞬間、遥斗の腕が伊織の身体を強く抱きすくめた。

 伊織の背中が大きく反り、シーツに爪を立てる。


「いいですよ。そのまま、あなたの声を聞かせて」

「……や、もう、」

 伊織の中で、プロフェッショナルとしての理性が崩れ去った。

 残されたのは、ただ彼に組み敷かれ、剥き出しの感情に溺れる一人の男の姿だけだった。


「いちいち、聞くな……俺は、」


 無意識のうちに漏れ出た一人称。

 素の男の顔が露わになった瞬間、遥斗の瞳の奥で何かが決定的に弾けた。

 彼は満足げに、そしてひどく凶暴に微笑むと、伊織の唇を塞いだ。

 そこから先の時間は、言葉による確認など必要のない、濃密で甘い熱の中へと溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。