第14話「仕事の顔の終焉」
打ち上げの夜から、数日が経過していた。
梅雨明けを宣言したかのような抜けるような青空が、東京のビル群を照らし出している。
伊織は、都内にある映像制作会社の会議室で、分厚いファイルの束を机の上に並べていた。
インティマシー・コーディネーターとしての最終報告書。
各シーンにおける事前の取り決め、現場での変更点、俳優のコンディション等を詳細に記録した書類だ。
これをプロデューサーに提出し、承認を得ることで、伊織のこの作品における業務は正式にすべて完了する。
本提出に先立ち、向かいの席では、遥斗のマネージャーである柴田美月が事務所控え用のコピーに目を通していた。
時折鋭い視線で文字を追っている。
「完璧な記録ですね。うちの事務所としても、今回の榊さんの対応には大変感謝しています」
柴田は書類から顔を上げ、伊織に向かって丁寧に頭を下げた。
「恐縮です。久世さんご自身が、非常にプロフェッショナルな対応をしてくださったおかげですよ」
伊織もまた、仕事の顔でそつなく返答した。
柴田は書類を揃えてバインダーに挟むと、少しだけ表情を緩めた。
「撮影中、久世があなたに迷惑をかけていないか、内心ヒヤヒヤしていましたよ」
「迷惑だなんて、そんなことは」
「いいえ、わかっています。彼は欲しいもののためなら、どんな労力も惜しまないタイプですから。ただ、現場の空気を壊すような真似はしなかったようで安心しました」
柴田の言葉には、伊織と遥斗の間にあった緊張感をすべて見透かしていたような響きがあった。
伊織は苦笑いを浮かべ、手元のボールペンを指先で転がした。
「柴田さんの教育の賜物でしょうね」
「だといいのですが。ともかく、これであなたと彼の仕事上の関係は終了ですね」
柴田は立ち上がり、書類の束を抱えた。
「これからは、プライベートな関係として、彼をよろしくお願いします」
そのストレートな言葉に、伊織は目を瞬かせた。
「……ご存知だったんですか」
「彼が隠し事をするのが下手なだけです。昨日から、機嫌の良さが隠しきれていませんから」
柴田は小さくため息をつき、呆れたように笑った。
「仕事に影響を出さない限り、私は口を出しません。榊さんのような落ち着いた大人の方が相手なら、私としても安心ですしね」
「……善処します」
伊織が立ち上がって深く一礼すると、柴田は満足そうに会議室を後にした。
残された伊織は、大きく息を吐き出してネクタイを少し緩めた。
これで本当に、すべての業務が終わった。
肩にのしかかっていた重圧が消え去り、心地よい疲労感が全身に広がる。
伊織が会議室を出てエレベーターホールへ向かうと、スマートフォンが短い振動を伝えた。
メッセージの送信元は、遥斗だった。
(今、ロビーに着きました)
今日は、伊織の業務終了に合わせて、彼が車で迎えに来ることになっていた。
伊織はエレベーターで一階へと降り、エントランスの自動ドアを抜けた。
照りつける夏の日差しの中、黒いセダンが車寄せに停まっている。
後部座席の窓が開き、サングラスをかけた遥斗が顔を覗かせた。
「お疲れ様です、伊織さん」
彼の手招きに従い、伊織は車のドアを開けて後部座席へと乗り込んだ。
車内はエアコンが効いており、微かに彼の体温の匂いが漂っていた。
運転席には、事務所の専属ドライバーが座っている。
「お疲れ様。わざわざ迎えに来てもらってすみません」
「俺が来たくて来たんです。これで、本当に仕事は終わりですか」
遥斗はサングラスを外し、伊織の顔を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつての現場で見せていたような張り詰めた緊張感はない。
ただ、恋人に対する純粋な好意と、隠しきれない独占欲が柔らかく溶け合っていた。
「ええ。たった今、柴田さんに最終報告書を提出して、すべての手続きが終わりました」
伊織が答えると、遥斗は短く息を吐き出し、深く座席に背中を預けた。
「長かったです」
「三ヶ月間、ですからね」
「榊さんが、俺のものになるまでの時間です」
運転手がいる前で堂々と言ってのける彼に、伊織は少しだけ慌てて周囲を見回した。
しかし、運転手は前方を向いたまま、一切反応を示す様子はない。
おそらく、柴田からすでに事情を聞かされているのだろう。
「……口を慎んでください。まだ外ですよ」
「もう仕事は終わったんだから、いいじゃないですか」
遥斗は悪びれる様子もなく、伊織の方へと身体を傾けてきた。
「手、触っていいですか」
彼がまた、いつもの確認を求めてくる。
伊織は小さくため息をつき、自分の左手を彼の方へ差し出した。
遥斗は満足げに微笑み、伊織の手に自分の手を重ね、指を絡めて固く握りしめた。
彼の体温が、皮膚を通してじわじわと伝わってくる。
「この後、どうしますか。お腹、空いていませんか」
遥斗が繋いだ手を自分の膝の上に引き寄せながら尋ねた。
「少し空きましたね。どこか、静かなところで食事がしたいです」
「わかりました。手配してあります」
遥斗が運転手に短く行き先を告げると、車は静かに走り出した。
窓の外を、夏の東京の景色が次々と流れていく。
伊織は、繋がれた手から伝わる確かな熱を感じながら、自分の内側で何かが大きく変わり始めているのを実感していた。
佐原に指摘されたような、空っぽの冷蔵庫のような私生活。
そこに、彼という存在が入り込んできたことで、日常のすべてが違う色を持ち始めている。
「伊織さん」
不意に遥斗が、真剣な声色で名前を呼んだ。
「はい」
「今週末、あなたの家に行ってもいいですか」
ホテルの部屋ではなく、伊織の個人的な生活空間への侵入の許可。
彼が自分の境界線を、さらに一歩内側へと広げようとしているのがわかる。
あの味気ない部屋に彼を招き入れることに、少しの躊躇いはあった。
だが、もう逃げるつもりはなかった。
「……ええ。いいですよ」
「本当ですか」
「その代わり、冷蔵庫の中身は何もないので、途中で買い出しに付き合ってもらいますが」
伊織が苦笑しながら言うと、遥斗は目を細めて嬉しそうに笑った。
「もちろんです。何でも買いますし、何でも作りますよ」
「期待しています」
二人は繋いだ手をさらに強く握り合った。
車は都心の喧騒を抜け、木漏れ日の落ちる静かな通りへと滑り込んでいく。
仕事の顔を脱ぎ捨てた伊織の隣には、彼がいちいち求めてくる「同意」という名の、心地よい鎖が存在していた。
それは決して伊織を縛り付けるものではなく、互いの輪郭を確かめ合い、より深く結びつくための大切な儀式なのだ。
週末の予定を話し合う彼の横顔を見つめながら、伊織は静かに目を閉じた。
カメラが回っていない場所で、二人の本当の時間が、今ようやく動き始めていた。




