番外編「解答権はあなたに」
付き合い始めてから、最初の週末。
伊織のマンションに、初めて遥斗が泊まりに来た。
リビングのソファには、二人が並んで座っている。
テレビの電源は入っておらず、部屋を包むのはエアコンの微かな駆動音と、隣に座る遥斗の規則正しい呼吸音だけだ。
伊織は膝の上に置いた本を開いていたが、活字はまったく頭に入ってこなかった。
視界の端には、黒いルームウェアを着た遥斗の長い脚が映っている。
距離は、肩が触れ合うほどに近い。
以前なら、彼がこの距離まで詰めてくることは絶対にあり得なかった。
仕事という境界線が消滅した今、彼は遠慮なく伊織のパーソナルスペースへと入り込んでくる。
しかし、その行動には、付き合う前とは別の意味での不自然さがあった。
「榊さん」
遥斗の声が、静寂を破った。
「はい」
「腰、触っていいですか」
伊織は本から視線を上げ、隣の彼を見た。
遥斗は真剣な眼差しで、伊織からの許可を待っている。
「……はい」
伊織が答えると、遥斗の長い腕が伊織の背後に回り、腰のあたりにそっと置かれた。
服越しに伝わってくる手のひらの熱が、伊織の体温をじんわりと上げていく。
恋人同士になったのだ。
寄り添うことなど、いちいち許可を取る必要はないはずだ。
それでも彼は、何か行動を起こすたびに必ず伊織に「確認」を求めてくる。
「背中、触っていいですか」
「……はい」
遥斗の手が、腰から背中へとゆっくり移動する。
その手つきはひどく慎重で、まるで貴重な美術品を扱うかのようだ。
「髪、触っていいですか」
「はい」
「首、触っていいですか」
「……はい」
遥斗の指先が、伊織の髪を梳き、うなじのあたりをそっと撫でる。
くすぐったさと、肌が粟立つような感覚が同時に襲ってきた。
伊織は耐えきれなくなり、閉じていた本をローテーブルに置いた。
「久世さん」
伊織が少しだけ抗議の声を上げると、遥斗は撫でる手を止めた。
「恋人になったんですから、毎回そうやって聞かなくても……」
伊織の言葉を遮るように、遥斗の顔が近づいてきた。
至近距離で合う視線。
彼の瞳の奥には、優等生俳優の仮面の下に隠していた、年相応の悪戯っぽい光が揺らめいている。
「嫌ですか?」
「嫌とか、そういうことではなくて」
「じゃあ、俺が黙って触れるのと、こうして一つずつ聞きながら触れるの、どっちが好きですか」
問い詰められ、伊織は言葉に詰まった。
黙って触れられるのは、もちろん嫌ではない。
だが、彼に「いいですか」と聞かれ、自分が「はい」と答えるたびに、二人の間の見えない鎖が強く結び直されていくような、独特の甘い高揚感があるのは事実だった。
伊織が答えられずに視線を泳がせていると、遥斗は小さく笑い声を漏らした。
「榊さんって、本当に自分の感情を口にするのが苦手ですよね」
「……悪かったですね」
「いえ。そういう不器用なところも、全部好きです」
遥斗は伊織の首筋に触れていた手を滑らせ、今度は頬を包み込んだ。
「でも、俺はもっと榊さんの声が聞きたいんです。だから、これからもいちいち聞きますよ」
彼の言葉には、甘さと同時に、逃げ道を塞ぐような重い独占欲が込められていた。
付き合ってから顔を出した、年下攻めの意地悪な部分。
三ヶ月間、彼がどれだけ自分の欲望を抑え込み、理性を総動員して伊織の境界線を守り続けていたのか。
その反動が、今こうして形となって表れているのだ。
「これ、わざとやってます?」
「はい」
遥斗は悪びれる様子もなく、あっさりと認めた。
「あなたが俺の問いかけに『YES』と答えるたびに、俺のものになっていると実感できるので」
彼はそう言って、伊織の唇に軽くキスを落とした。
触れるだけの、挨拶のようなキス。
だが、その後に続く沈黙が、さらに濃密な接触を予感させて伊織の呼吸を浅くする。
「次は、どこに触れていいですか?」
遥斗が囁くように問う。
解答権は、常に伊織の手の中にある。
そして、彼が求めている答えは、伊織自身もよくわかっていた。
「察してほしい」と逃げていたかつての自分なら、ここで黙り込んでいただろう。
だが、今は違う。
彼が待ってくれているからこそ、伊織は自分の言葉で、彼を内側へと招き入れることができる。
「……あなたが、触れたいと思うところ全部」
伊織が絞り出すように答えると、遥斗の瞳がひどく暗く、熱い色に染まった。
彼は満足げに微笑み、再び伊織の唇を塞いだ。
今度は確認の言葉などない、深く、甘い口づけだった。




