エピローグ「今日は、あなたが聞きたいところまで」
一年後。
真夏の強い日差しが、タワーマンションの広いリビングに降り注いでいる。
伊織と遥斗が一緒に暮らし始めてから、半年が経過していた。
今日は珍しく、二人とも仕事が休みの日だ。
遥斗は来月から始まる新しい映画の台本を、ソファに深く腰掛けて読み込んでいる。
今回の作品に、伊織はインティマシー・コーディネーターとして参加していない。
彼が他の俳優と接触するシーンがあるのかどうか、伊織はあえて聞いていなかった。
仕事とプライベートは、完全に切り離す。
それが、二人が長く一緒にいるためのルールだった。
伊織はキッチンで淹れた冷たい麦茶をグラスに注ぎ、二つ持ってリビングへと戻った。
ローテーブルにグラスを置くと、氷がカチンと涼しげな音を立てる。
遥斗は台本から目を離さず、空いた方の手でグラスを探り当てた。
「ありがとう、伊織さん」
同居を始めてから、彼からの呼び方は「榊さん」から「伊織さん」へと変わった。
伊織は遥斗の隣に腰を下ろし、彼の肩に軽く頭を預けた。
遥斗の体温が、薄手のTシャツ越しに心地よく伝わってくる。
彼は台本を読むのをやめ、伊織の頭にそっと顎を乗せた。
「疲れてる?」
「いや。ただ、こうして何もしない時間が久しぶりだから」
伊織が目を閉じて答えると、遥斗の手が台本を手放し、伊織の肩を抱き寄せた。
「伊織さん」
「ん?」
「触っていい?」
一年経った今でも、彼のこの確認の儀式は続いている。
日常の些細な接触は自然に行われるようになったが、二人の時間が静かに深まっていく時、彼は必ずこうして伊織に問いかけてくるのだ。
「どうぞ」
伊織が短く許可を出すと、遥斗の指先が伊織の腕を優しくなぞり始めた。
それは、かつて撮影スタジオで力加減を確認した時のように、慎重で、熱を孕んだ動きだった。
あの頃は、仕事という大義名分を盾にして行われていた行為が、今は純粋な愛情表現として伊織を満たしている。
「どこまで?」
遥斗の声が、耳元で甘く響いた。
それは、伊織の限界を試すような、悪戯っぽい問いかけだった。
伊織はゆっくりと目を開け、遥斗の顔を見上げた。
彼の瞳には、一年前に初めてラウンジで告白された夜と同じ、深い執着と愛情が揺らめいている。
彼は絶対に伊織の境界線を越えない。
だからこそ、伊織自身がその境界線を広げ、彼を受け入れ続けなければならない。
「察してほしい」と逃げることは、もう二度としないと決めたのだ。
伊織は少しだけ考え、小さく微笑んで答えた。
「今日は、あなたが聞きたいところまで」
その言葉に、遥斗は一瞬だけ驚いたように目を見張り、次いで、たまらないといった様子で目を細めた。
彼は伊織の身体を強く抱き寄せ、その唇に深くキスをした。
窓の外では、夏の蝉時雨が遠く聞こえている。
二人の間にある境界線は、もうどこにも存在していなかった。




