第8話「カット後の落差」
都内近郊の大学キャンパスを借り切ってのロケ撮影。
木漏れ日が降り注ぐ中庭のベンチで、遥斗と桐谷の穏やかな日常シーンの撮影が行われていた。
伊織は少し離れた場所にあるテントの下で、マネージャーの柴田美月と共にモニターを見つめていた。
柴田はタイトなパンツスーツを着こなし、鋭い視線で自身の担当俳優の演技をチェックしている。
「久世さん、今日も完璧ですね」
伊織が声をかけると、柴田はタブレットから顔を上げずに短く答えた。
「ええ。仕事に関しては、彼を完全に信用していますから」
その言葉には、マネージャーとしての強い自負が滲んでいた。
モニターの中では、遥斗が桐谷に向かって柔らかい微笑みを向けている。
台本通りの、恋人を慈しむような完璧な表情だ。
桐谷もそれに応え、二人の間には温かく幸福な空気が流れていた。
インティマシー・コーディネーターとしての事前の調整が功を奏し、今日の撮影は非常にスムーズに進行している。
接触の範囲も、身体的な負担も、すべてが許容範囲内だ。
「カット! いいね、最高だよ」
三崎監督の声がキャンパスに響き渡る。
その瞬間、モニターの中の遥斗の空気が一変した。
先程までの恋人に向けるような温かい微笑みは消え去り、無機質な優等生の顔に戻る。
彼は桐谷に軽く頭を下げると、すぐに周囲を見渡し始めた。
その視線が探しているものが何なのか、伊織には痛いほどわかっていた。
遥斗の黒い瞳が、テントの下にいる伊織を捉える。
彼は真っ直ぐにこちらへ歩いてくると、柴田に軽く会釈をした後、伊織の前に立った。
「榊さん。先程の肩に触れる動作、力加減は強すぎませんでしたか」
仕事の確認を装った、彼なりの接触。
伊織は喉の奥がカラカラに張り付くのを感じながらも、プロの顔を取り繕って淡々と答えた。
「問題ありませんでした。桐谷さんの身体の動きとも連動していて、非常に自然な流れでしたよ」
「よかったです」
遥斗は微かに目を細め、伊織の顔をじっと見つめた。
その視線には、カメラの前で見せていた演技の熱とは違う、もっと生々しく重い執着が泥のように渦巻いている。
本番中の完璧な演技と、カットがかかった瞬間に伊織へ向けられる熱。
その落差が、伊織の精神をじわじわと削り取っていく。
「久世」
横から、柴田の冷ややかな声が飛んだ。
「次のシーンの衣装替えがあるわ。急ぎなさい」
「はい。すぐに行きます」
遥斗は素直に頷き、伊織にもう一度だけ視線を残してロケバスの方へと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、伊織は微かに息を吐き出した。
「榊さん」
不意に柴田に名前を呼ばれ、伊織の肩がわずかに強張った。
柴田は腕を組み、伊織の方を真っ直ぐに見据えていた。
「彼、あなたのことばかり見ていますね」
ストレートな指摘に、伊織は言葉を失った。
誤魔化そうとしても、彼女の鋭い観察眼を誤魔化せるはずがない。
「……私の仕事柄、俳優の視線が集まるのは仕方のないことだと思っています」
伊織は苦しい言い訳を口にしたが、柴田は鼻で笑った。
「そういう次元の話ではないことくらい、私にもわかります。彼は賢い子ですから、現場に迷惑をかけるようなことは絶対にしない。恋愛感情を持つことも、私は否定しません」
柴田は言葉を区切り、さらに鋭い視線を伊織に突き刺した。
「ですが、彼の仕事の質に少しでも影響が出るようなら、私は容赦なく彼を叱り飛ばします。そして、その原因を作っている榊さんにも、プロとしての責任を問うことになりますよ」
それは、担当俳優を守るための明確な警告だった。
伊織は背中に冷や汗が伝うのを感じながら、深く頷いた。
「……承知しています。彼にも、私にも、仕事に影響を出させるようなことは絶対にしません」
「ええ。榊さんがプロフェッショナルであることは、これまでの仕事ぶりで理解していますから」
柴田はそれだけ言うと、再びタブレットの画面へと視線を戻した。
伊織は乾いた唇を舐め、遠くのロケバスを見つめた。
柴田の言葉は正論だ。
伊織と遥斗の間に流れる不自然な空気は、周囲のスタッフにも少しずつ伝わり始めているのかもしれない。
(撮影が終わるまで待ちます)
遥斗の言葉が、再び脳裏に蘇る。
彼が待っている間、伊織はこの息の詰まるような緊張感を保ち続けなければならない。
自分から触れてこない彼を、自分から拒絶することもできないまま。
伊織は、自身の「察してほしい」という悪癖が、今の状況をより複雑にしていることを痛感していた。
(バウンダリーの侵害。他者の肉体と精神の境界線を踏み越える行為の危険性を、私は誰よりも知っている)
だからこそ、自分の心の周囲に何重ものテープを張り巡らせてきた。
だが、久世遥斗という男は、そのテープを剥がすのではなく、テープの外側に立ったまま、伊織自身の指でそれを剥がさせようとしているのだ。
言葉にしてしまえば、決定的な何かが壊れる。
その恐怖が、伊織を境界線の内側に縛り付け続けていた。




