第7話「冷蔵庫の空白と指摘」
撮影が休みとなった日曜日。
伊織は久しぶりに、自宅のマンションで遅い朝を迎えた。
寝癖のついた髪を直すこともせず、スウェット姿のままキッチンへと向かう。
冷蔵庫の扉を開けると、そこには数本の炭酸水と、賞味期限の切れた調味料だけが整然と並んでいた。
食材と呼べるものは一切ない。
小さく息を吐きながら炭酸水を一本取り出し、乾いた喉に流し込む。
炭酸の刺激が、まだ半分眠っている脳を僅かに覚醒させた。
仕事中の自分は、俳優の心身の安全を完全に管理し、現場の空気をコントロールするプロフェッショナルだ。
しかし、一歩私生活に戻れば、この冷蔵庫の中身のように空虚な生活を送っている。
自炊をする気力も、部屋を飾り付ける興味もない。
ただ、次の仕事までの時間を消費しているだけだ。
インターホンの電子音が、静かな部屋に唐突に響き渡った。
伊織は眉をひそめながら、モニターを確認する。
画面に映っていたのは、見慣れた人物だった。
元恋人であり、映像編集者として同じ業界で働く佐原直哉だ。
伊織は解錠ボタンを押し、玄関のドアを開けた。
「よお。相変わらずひどい格好だな」
佐原は片手に紙袋を提げ、片方の口角を上げて立っていた。
「アポなしで来るなと、いつも言っているだろう」
「近くのスタジオで編集作業が徹夜になってさ。美味いコーヒーとサンドイッチ買ってきたから、入れてくれよ」
佐原は伊織の抗議を軽く受け流し、勝手知ったる様子で部屋に上がり込んだ。
伊織はドアを閉め、諦めて彼のリビングへの侵入を許した。
佐原とは、五年ほど前に半年だけ付き合っていた。
別れた理由は劇的なものではなく、互いの仕事の忙しさと、伊織の察してほしいという悪癖が重なったことによる自然消滅に近いものだった。
今では、業界の裏事情を共有できる数少ない友人として関係が続いている。
佐原はダイニングテーブルに紙袋を置き、コーヒーのカップを取り出した。
「ほら。お前の好きな深煎りのブラックだ。しかし、この部屋は相変わらず生活感がないな。冷蔵庫の中身、また水と調味料だけだろ」
「余計なお世話だ」
伊織は佐原の対面に座り、コーヒーに口をつけた。
苦味と豊かな香りが、口の中に広がる。
「で、最近どうなんだ。今の現場、久世遥斗と桐谷蓮の共演だろ。配信前からかなり話題になってるぞ」
佐原はサンドイッチを頬張りながら尋ねてきた。
「順調だよ。二人とも非常にプロ意識が高い。インティマシー・コーディネーターとしての仕事も、やりやすい現場だ」
「へえ。あの優等生俳優、久世遥斗ね」
佐原は少しだけ目を細め、視線を伊織に向けた。
「あいつ、表向きは完璧だけど、かなり独占欲強そうな目を時々するよな。編集で映像を見てると、ふとした瞬間の視線の動かし方に、何か重いものを感じる時がある」
映像編集者としての佐原の目は鋭い。
伊織はコーヒーカップを持つ手を無意識に固く握りしめ、表情筋を動かさずに答えた。
「彼は役柄に深く入り込むタイプだから。その熱量が映像に乗っているだけだろう」
「ふうん。まあ、お前がそう言うならそうなんだろうけど」
佐原は手元のコーヒーを見つめ、少し声のトーンを落とした。
「お前さ、仕事では嫌なら言ってください、触れていいですかって、相手の意思をあれだけ明確に確認できるのに、自分のことになると途端に黙り込むよな」
伊織は返す言葉が見つからず、視線をテーブルに落とした。
佐原の言葉は、伊織の核心を容赦なく突いていた。
「俺と付き合ってた時もそうだった。寂しいなら寂しいって、会いたいなら会いたいって、言葉にしてくれればよかったのに。お前はいつも察してほしいって態度で、自分からは絶対に踏み込んでこなかった」
佐原の口調に責めるような響きはない。
ただ、過去の事実を淡々と並べているだけだ。
その言葉を聞いた瞬間、伊織の脳裏に古い記憶の断片がフラッシュバックした。
もう何年も前のこと。
劇場の埃っぽい匂いと、暗い舞台袖。
口論の末に、自分が本音を一切言葉にせず、ただ冷たい沈黙で相手を睨みつけた時のことだ。
相手の瞳に浮かんだ、決定的な失望の色。
言葉にすれば、何かが決定的に壊れてしまう。
その強迫観念が喉を締め付け、結局大切なものを自ら手放した。
あの時の冷え切った空気が、記憶の底から這い上がって肌にまとわりつく。
「……昔の話だ。それに、私はそういう人間なんだよ」
伊織が自己完結するように言うと、佐原は深くため息をついた。
「そういう人間だって、自分で決めつけて逃げてるだけだろ。仕事の顔を盾にして、傷つくことから逃げてるんだ」
佐原は残りのコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「そろそろ戻るわ。徹夜明けで限界だ。あ、そのサンドイッチ、残さず食えよ」
佐原は玄関へと向かい、ドアノブに手をかけた。
「伊織」
彼は振り返らずに、名前を呼んだ。
「仕事のルールを、自分の恋愛にまで持ち込むなよ。お前が言葉にしないと、相手はずっと待たされることになるんだからな」
ドアが閉まり、部屋に再び静寂が戻った。
伊織は冷めかけたコーヒーを見つめながら、佐原の言葉を頭の中で繰り返していた。
待たされることになる。
その言葉が、遥斗の顔と重なる。
撮影が終わるまで待ちます。
遥斗はそう宣言し、実際に伊織の境界線の外側で、じっと時が過ぎるのを待っている。
自分からは決して踏み込まず、伊織がYESと言うのを待ち続けているのだ。
伊織は自分の部屋を見回した。
生活感のない家具。
空っぽの冷蔵庫。
他人の感情を調整することには長けているのに、自分の感情の扱い方は致命的に不器用なままだ。
佐原に指摘された弱点は、伊織自身が一番よく理解していた。
好きなら好きと言えばいい。
だが、その一歩を踏み出すのが恐ろしいのだ。
相手に拒絶されることよりも、自分がコントロールできない感情に飲み込まれることが。
伊織はサンドイッチの包みを開け、一口かじった。
味がしなかった。
明日からまた、あの重い熱情を孕んだ視線に晒される日々が始まる。
期限の日は、確実に近づいていた。




