第6話「プロフェッショナルの矜持」
午後の撮影は、洋館の書斎を模したセットで行われた。
雨は小降りになり、雲の隙間から薄暗い光が差し込み始めている。
ここでは、桐谷演じるキャラクターが、遥斗の演じる恋人に感情をぶつけ、押し倒すというシーンが予定されていた。
伊織は三崎監督の隣に立ち、カメラの構図と俳優たちの動線を確認していた。
三崎監督は腕を組み、モニターを睨みつけながら口を開いた。
「榊さん。この押し倒す動作なんだけど、もっと勢いをつけて、本棚に背中をぶつけるくらいの粗暴さが欲しいのよね。感情の爆発を表現したいから」
その要求に対し、伊織の頭に瞬時に物理的な危険性が浮かんだ。
美術スタッフが仕込んだ本棚の強度と、体重が乗った状態で衝突した際の頸椎への負担。
打ち所が悪ければむち打ちでは済まない。
「三崎監督。インティマシー・コーディネーターのガイドラインにおいて、事前のブロッキングなしでの突発的な物理的衝突は、俳優の安全配慮義務違反の対象となり得ます。作品の芸術性を守るためにも、俳優の頸椎と精神に不可逆のダメージを与えるリスクは、私がここで完全に排除します」
伊織の言葉は低く、淡々と響いた。
監督とコーディネーターの意見の対立。
三崎監督は眉間にしわを寄せ、少しの間沈黙した。
彼女は作品のクオリティに一切の妥協を許さないことで有名だ。
「それなら、感情の爆発はどう表現するの。少し画が弱くならないかしら」
「手前のデスク上の小物を前ボケに使い、ソファへ沈み込む反動をローアングルで捉えれば、本棚以上の暴力的カタルシスが生まれるはずです」
伊織は監督の演出意図を汲み取った上で、明確な代替案を提示した。
周囲のスタッフたちが、息を潜めて二人のやり取りを見守っている。
その時、セットの隅で待機していた遥斗が、静かに歩み出てきた。
「監督。榊さんの言う通り、ソファを使った動きで一度テストさせていただけませんか」
遥斗の声は穏やかだが、そこには確かな説得力があった。
「俺自身の見せ方の問題でもあります。ソファへの倒れ込み方次第で、監督が求めている粗暴さは十分に表現できると思います」
三崎監督は遥斗の目を見つめ、やがて短く息を吐き出した。
「わかったわ。じゃあ、ソファで一度テストしてみましょう。久世君、頼むわよ」
「はい」
遥斗は短く答え、桐谷と共に位置についた。
伊織は小さく息を吐き出したが、同時に遥斗の介入に対して複雑な感情を抱いていた。
彼が自分の意見を支持してくれたのは事実だ。
しかし、それは作品を良くするための俳優としての判断なのか、それとも伊織への個人的な感情が入り混じったものなのか。
テストが始まると、遥斗は見事にその言葉を証明してみせた。
桐谷に突き飛ばされ、ソファの背もたれに倒れ込む瞬間、彼は上半身の筋肉を絶妙にコントロールし、まるで硬い壁に叩きつけられたかのような重い衝撃を表現した。
監督が求めていた爆発力が、完璧に体現されていた。
「……オッケー。今の動きで本番いきましょう。カメラ、アングル調整して」
三崎監督が指示を出し、スタッフたちが再び慌ただしく動き始める。
伊織は遥斗の方を見た。
遥斗は乱れたシャツの襟元を直しながら、視線を伊織に向けた。
そして、誰にも気づかれないように、わずかに顎を引いてみせた。
それは、あなたの仕事を守ったという、彼なりのメッセージだった。
伊織は唇の裏側を噛み、視線をタブレットに落とした。
彼はどこまでも賢く、計算されている。
自分の境界線を越えないまま、こうして外堀を埋めるように伊織の領域へと介入してくる。
撮影は順調に進み、その日のスケジュールは夕方前に全て終了した。
伊織は報告書をまとめ終え、機材の撤収作業が続く洋館を後にした。
ホテルへの帰路、雨はすっかり上がっていた。
濡れたアスファルトが、街灯の光を反射して黒く光っている。
「榊さん」
背後から声がかかり、伊織は足を止めた。
振り返らなくても、誰の声かはわかっていた。
遥斗が、黒いパーカー姿で近づいてくる。
「ホテルまで、送っていっていいですか」
彼は少し距離を置いて立ち止まり、いつものように許可を求めてきた。
周囲にスタッフの姿はない。
断る理由はいくらでも作れたが、先ほどの撮影での一件があり、伊織はむげに彼を突き放すことができなかった。
「……方向が同じですから、構いません」
伊織が答えると、遥斗は静かに隣に並んだ。
二人は無言のまま、海沿いの道を歩き始めた。
波の音が、夕闇の中に等間隔で響いている。
遥斗の歩幅は伊織よりも少し広く、伊織のペースに合わせて歩く速度を調整しているのがわかった。
その気遣いが、今の伊織にはひどく重く感じられた。
「先程は、助かりました」
沈黙に耐えきれず、伊織の方から口を開いた。
「監督との擦り合わせは私の仕事ですが、俳優側から動きの提案をしてもらえると、現場がスムーズに回ります」
あくまで仕事の話として、感謝の意を伝える。
遥斗は前を向いたまま、淡々と答えた。
「俺は、榊さんが正しいと思ったから口を出しただけです」
「だとしても、主演俳優がコーディネーターの意見に露骨に肩入れするのは、周囲から不審に思われる可能性があります」
「不審に思われても構いません」
遥斗は立ち止まり、伊織の方を向いた。
「俺は、榊さんが仕事に誇りを持っていることを知っている。だから、その邪魔は絶対にしないと言いました。でも、榊さんが仕事で困っている時に、見過ごすこともできません」
彼の瞳は、夕暮れの光の中で深い色に沈んでいた。
「それは……」
「榊さん」
遥斗が一歩だけ、伊織の方へ足を踏み出した。
「手、触っていいですか」
伊織の呼吸が、ほんの数秒だけ止まった。
仕事中の確認ではない。
今の彼らは、ただの男と男として、夕暮れの海辺に立っている。
「……駄目です」
伊織の声の震えは、波の音にかき消されなかった。
遥斗は踏み出した足を止め、それ以上距離を詰めることはしなかった。
「わかりました」
彼は静かにうなずき、再び前を向いて歩き出した。
無理に触れてこない。
境界線を越えない。
その手順が、伊織の心にひびを入れ、脆い部分を抉り出していく。
YESと言えば、彼はすぐにでも伊織を抱きしめるだろう。
その選択権は、常に伊織の側に委ねられている。
だからこそ、逃げ場がないのだ。
伊織は拳を固く握りしめ、彼の背中を無言で追いかけた。
期限までの道のりは、まだ始まったばかりだった。




