第5話「レンズ越しの境界」
翌朝、海沿いの古びた洋館で撮影が開始された。
朝から降り続く細かい雨が、窓ガラスを斜めに叩いている。
洋館の広間には、無数のケーブルが這い回り、巨大なカメラと照明機材が所狭しと並べられていた。
三崎監督の指示が飛び交い、スタッフたちが慌ただしく動き回っている。
伊織はカメラの死角となる壁際に立ち、モニターの画面を注視していた。
今日の午前中は、遥斗と桐谷の接触を伴う重要なシーンが予定されている。
劇中で恋人関係にある二人が、久しぶりの再会を果たし、互いの熱を確かめ合うように抱擁を交わす場面だ。
テスト撮影が始まり、遥斗と桐谷が所定の位置に立つ。
カチンコが鳴り響き、現場の空気が一瞬にして静まった。
遥斗の顔から、優等生俳優としての穏やかさが消える。
そこにいるのは、愛する者への渇望と、抑えきれない情念を抱えた一人の男だった。
彼は桐谷の腕を引き寄せ、その背中に腕を回す。
事前の打ち合わせ通り、前腕の中央を掴む力加減も、身体を密着させる角度も完璧だ。
桐谷もまた、遥斗の熱を正面から受け止め、見事な化学反応を起こしている。
モニター越しに見る二人の姿は、深く愛し合う恋人同士にしか見えない。
伊織はまばたきを減らし、二人の動作の細部をチェックした。
衣装の乱れ具合。
肌への過剰な摩擦。
首や関節への不自然な負担。
そのどれもがクリアされている。
安全面において、伊織が口を挟む余地は全くない。
彼らはプロフェッショナルとして、インティマシー・コーディネーターの指示を完璧に体現していた。
「はい、カット」
三崎監督の声で、張り詰めていた空気が緩んだ。
「いいよ、二人とも。感情の乗り方は今のままでいい。ただ、久世君」
「はい」
「抱き寄せる時、もう少しだけ桐谷君の肩口に顔を埋めるようにしてみて。カメラの角度的に、その方が切なさが際立つから」
「わかりました」
遥斗は監督の指示にうなずき、桐谷と短く言葉を交わして立ち位置を微調整する。
伊織は手元のタブレットに、今の変更点を入力した。
肩口に顔を埋める動作が加わっても、事前の同意範囲を超える接触にはならない。
安全上の問題はないと判断し、伊織は静かに頷いた。
数回のテストを経て、本番の撮影が開始された。
カメラが回り、二人の演技が最高潮に達する。
遥斗が桐谷を強く抱きしめ、その肩口に顔を埋めた瞬間だった。
遥斗の視線が、ふと上がった。
カメラのレンズを通り越し、その先の暗がりに立つ伊織を、真っ直ぐに射抜いたのだ。
それはほんの数秒、いや、一秒にも満たない瞬きのような時間だった。
しかし、その瞳に宿っていた熱量は、昨夜ラウンジで伊織に向けられたものと全く同じだった。
彼は今、桐谷を抱きしめながら、伊織を見ている。
伊織は足の裏から頭頂部へ向けて、冷たい水が駆け上がるような感覚を覚えた。
演技としての熱情と、彼自身の個人的な執着。
その二つが同化し、モニターというフィルターを突き破って伊織の元へ届いたのだ。
「カット。オッケー、素晴らしい」
三崎監督の声が響き、スタッフから安堵の吐息が漏れる。
遥斗は桐谷から体を離し、いつもの礼儀正しい青年の顔に戻った。
周囲のスタッフに労いの言葉をかけながら、彼は一度だけ伊織の方を振り返った。
その口元には、微かな笑みが浮かんでいるように見えた。
伊織はタブレットを持つ手に力を込め、逃げるように視線を外した。
プロとして現場にいる以上、動揺を見せるわけにはいかない。
しかし、彼がカメラの裏側にまで侵食させてくるその重い熱を、伊織はもう無視できなくなっていた。
午前中の撮影が終わり、昼休憩に入った。
スタッフたちがロケ弁当を手に三々五々散っていく中、伊織は機材車の陰で冷たいミネラルウォーターを飲んでいた。
雨はまだ降り続いている。
湿気を帯びた生ぬるい風が、洋館の壁を撫でていく。
「榊さん」
聞き慣れた声に振り返ると、桐谷蓮が立っていた。
彼は手にした弁当箱を揺らしながら、伊織の隣に並んだ。
「お疲れ様です、桐谷さん」
「お疲れ。榊さん、ずっと立ちっぱなしで疲れない?」
「これが仕事ですから。桐谷さんこそ、午前中のシーンはエネルギーを使いましたね」
伊織が労うと、桐谷は眉尻を下げた。
「いや、本当に。久世君の集中力、尋常じゃないよ。あの年齢であの熱量出されたら、こっちも引きずり込まれそうになる」
「素晴らしい演技でしたよ。事前の取り決めも完璧に守っていただいて、感謝しています」
伊織がコーディネーターとしての定型句を口にすると、桐谷は少しだけ首を傾げた。
「久世君さ」
「はい」
「榊さんのこと、すごく見てない?」
伊織の指先がペットボトルの表面で滑った。
顔には一切の動揺を出さないよう、表情筋を固める。
「……私のことですか? 気のせいでしょう。私はいつもカメラの死角にいますから」
「いや、気のせいじゃないと思うな」
桐谷はペットボトルのお茶を一口飲み、空を仰いだ。
「あいつ、カメラ回ってる時は俺の方見てるけど、カットかかった瞬間に視線が迷子になってるんだよね。で、最終的に必ず榊さんのいる方向で止まる。俺とのキスシーンより、榊さんに肩触られた時のほうが緊張してない?」
桐谷の言葉は、彼の目が伊織の反応を的確に観察していることを示していた。
彼は人懐っこい外見とは裏腹に、他人の感情の機微を読み取る能力に長けている。
「それは、私が彼の接触の範囲を監視しているからです。俳優としては、コーディネーターの目が気になるのは当然のことですよ」
伊織は無難な回答を返し、話題を切り上げるために空になったペットボトルを潰した。
「そろそろ午後の準備がありますので、失礼します」
「あ、うん。ごめんね、変なこと言って」
桐谷は軽く手を振り、弁当を食べるためにロケバスの方へと歩いていった。
伊織は足早に洋館の裏手へと回り、冷たい雨に濡れたレンガの壁に背中を預けた。
桐谷にまで見透かされている。
遥斗の視線は、それほどまでに明確なのだ。
自分は三ヶ月間、この重圧に耐え切れるのだろうか。
伊織は目を閉じ、雨音の中で小さく息を吐き出した。




