第4話「期限付きの熱」
撮影開始を明日に控えた夜。
伊織は、ロケ地に近い海沿いのビジネスホテルに前泊していた。
窓の外からは、一定のリズムで打ち寄せる波の音が、くぐもった重低音となって響いてくる。
時刻はすでに深夜零時を回っていた。
ホテルの最上階に設けられた宿泊者専用のラウンジには、伊織の他には誰もいない。
間接照明のオレンジ色の光が、ガラス製のテーブルに冷たい反射を描いている。
伊織はコーヒーカップを片手に、タブレット端末で明日の香盤表と、インティマシーシーンのタイムラインを最終確認していた。
クランクインの日は、俳優にとってもスタッフにとっても、独特の緊張感が漂う。
特に今回の作品は、感情の機微を身体的な接触で表現するシーンが多いため、初日から繊細な調整が求められる。
伊織は画面をスクロールさせながら、明日の桐谷と遥斗の動線を頭の中で完全に組み立てていた。
ラウンジの入り口付近で、微かな足音がした。
絨毯の上を歩く、規則正しく静かな足音。
伊織が視線を上げると、黒いパーカーのフードを被った長身の影が近づいてくるのが見えた。
久世遥斗だった。
彼は伊織の姿を認めるなりフードを下ろし、迷いのない足取りで真っ直ぐに歩み寄ってくる。
「こんな夜更けに、まだ仕事ですか」
遥斗の声は、静まり返ったラウンジの空気に溶け込むように低かった。
「ええ。明日のスケジュールの最終確認です。久世さんこそ、明日は早いのに眠れないんですか」
「少し、風に当たりたくて」
遥斗は伊織の向かい側にある一人掛けのソファの背もたれに手を置いた。
「座ってもいいですか」
まただ。
伊織は胸の奥の筋肉をわずかに固くしながら、短くうなずいた。
遥斗がソファに深く腰を下ろすと、彼から夜の冷気と、微かな潮の香りが漂ってきた。
外を歩いてきたのだろう。
彼の髪の毛先は、少しだけ湿気を帯びていた。
伊織はタブレットの画面をオフにし、テーブルの上に伏せて置いた。
「明日の初日、何か不安な点でもありましたか。もし台本の解釈や動きで気になることがあれば、今からでも三崎監督に連絡を取りますが」
伊織はあくまでインティマシー・コーディネーターとしての顔を崩さず、問題解決のための提案を行った。
俳優が撮影前夜に眠れなくなることは、珍しいことではない。
そのプレッシャーを取り除くのも、広い意味での安全確保に含まれる。
しかし、遥斗はゆっくりと首を横に振った。
「台本や演技についての不安はありません。明日の準備は完全に終わっています」
「では、どうして」
「榊さんに、話があって来ました」
遥斗の瞳が、間接照明の光を反射して鋭い光を放った。
伊織はカップの取っ手を持つ指に、わずかに力を込めた。
彼の眼差しは、仕事の相談をする俳優のものではない。
もっと根源的で、逃げ場のない何かを突きつけてくるような引力を持っていた。
「……私に、ですか」
「はい」
遥斗はテーブルの上で両手を組み、伊織から一瞬たりとも視線を外さずに口を開いた。
「俺、榊さんが好きです」
波の音が、不意に遠のいたように感じられた。
ラウンジの静寂が、伊織の鼓膜を圧迫する。
ストレートで、装飾の一切ない言葉だった。
冗談やからかいの色は微塵もなく、ただ純粋な事実としてそこに置かれた。
伊織は頭を真っ白にさせ、慌てて自己防衛の理由を探し始めた。
俳優からの予期せぬ好意。
それは、伊織の立場において最も警戒すべき事態だ。
「……何を、言っているんですか。あなたは明日から、大役の撮影に入るんですよ。役への入り込みすぎか、極度の緊張が引き起こした感情の錯覚でしょう」
伊織の声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。
大人の余裕を装い、相手の言葉を若さゆえの気の迷いとして処理しようとした。
しかし、遥斗の表情は微動だにしなかった。
「錯覚ではありません。俺は自分の感情と、役柄の感情を混同するほど素人ではないつもりです」
「だとしても」
伊織はテーブルの上に両手を置き、前傾姿勢をとった。
「私はインティマシー・コーディネーターです。俳優の心身の安全を守るのが仕事であり、出演者と個人的な関係を結ぶことは、職業倫理に反します」
「それは、規約で明確に禁止されていることですか」
遥斗の問い返しは、以前会議室で交わしたやり取りの反復だった。
伊織は眉間を寄せ、語気を強めた。
「規約以前の問題です。私があなたに特別な感情を抱けば、現場での公平な判断ができなくなる。それは作品全体を危険に晒すことと同じです。私は今、あなたの仕事に深く関与している。だから、その言葉に応えることは絶対にできません」
それは、伊織にとって一切の嘘偽りのない本音だった。
仕事に対するプライドと、これまでに築き上げてきたキャリアの重み。
それを捨てることなど、絶対にできない。
それに、自分は彼よりも七つも年上で、こんな無頓着な生き方しかできない人間だ。
華やかな世界で生きる彼が、本気で自分を求め続けるはずがない。
伊織の拒絶を聞き終えた遥斗は、一度だけ静かにまばたきをした。
傷ついた様子も、反発する様子もない。
まるで、伊織がそう答えることを最初から完全に予測していたかのように。
「わかりました」
遥斗は組んでいた手を解き、ソファの背もたれに体を預けた。
「榊さんが、仕事に誇りを持っていることはよく理解しています。俺も、現場の空気を乱すような真似は決してしません」
彼はそう言い切ると、伊織の目を真っ直ぐに射抜いた。
「じゃあ、撮影が終わるまで待ちます」
伊織は短く息を吸い込んだ。
引き下がると思っていた予想が、根底から覆された。
「……待つ?」
「はい。撮影期間中、榊さんは俺の仕事に関与している。だから応えられない。それなら、クランクアップして、榊さんがコーディネーターとしての役目を終えた時にもう一度聞きます」
遥斗の声は穏やかだが、そこには絶対に揺らがない岩のような意志が内包されていた。
(バウンダリーの侵害)
伊織の脳裏に、自身の専門用語が冷徹な分析として浮かび上がった。
他者の肉体と精神の境界線を踏み越える行為の危険性を、伊織は誰よりも知っている。
だからこそ、自分の心の周囲に何重ものテープを張り巡らせてきた。
だが、久世遥斗という男は、そのテープを強引に剥がすのではない。
テープの外側に立ったまま、伊織自身の指でそれを剥がさせようとしているのだ。
「馬鹿なことを言わないでください」
伊織は動揺を隠しきれず、テーブルの上の手を強く握った。
「撮影は三ヶ月以上続きます。その頃には、あなたのそんな一時的な熱など、すっかり冷めていますよ」
「冷めません」
即答だった。
「俺は、一度手に入れたいと思ったものを諦めたことはありません。榊さんが俺を仕事の対象としてしか見られないなら、仕事が終わるその瞬間まで、ただ待ちます」
遥斗は立ち上がり、伊織を見下ろした。
「もし三ヶ月後、俺の気持ちが本当に冷めていると思うなら」
彼はわずかに目を細め、口角を微かに上げた。
「その時、ちゃんと俺を振ってください」
それは、敗北の可能性を一切考慮していない人間の宣言だった。
逃げ道を用意しているように見せかけて、伊織の退路を完全に断ち切っている。
期限が設定されたことで、彼の告白は無かったことにはできなくなった。
明日からの三ヶ月間、伊織は彼の好意を常に意識しながら、仕事に向き合わなければならないのだ。
伊織が言葉を失っている間に、遥斗は踵を返した。
「おやすみなさい、榊さん。明日はよろしくお願いします」
彼は一礼し、足音も立てずにラウンジから出て行った。
一人取り残された伊織は、完全に冷え切ったコーヒーを見つめながら、胃の底に重い鉛を飲み込んだような感覚に囚われていた。
彼が絶対に自分の境界線を越えてこないからこそ、その執着の重さが、真綿で首を絞めるように伊織の心を縛り付け始めていた。




