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インティマシー・コーディネーターの俺に、人気俳優が毎回「触っていいですか」と聞いてくる件~同意しか求めない年下の執着が重すぎる~  作者: 月夜 闇花


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3/16

第3話「ミリ単位の包囲網」

 都内の撮影スタジオは、無数の機材とスタッフの熱気で満たされていた。

 天井に張り巡らされた巨大な照明器具が、白《しろ》ホリゾントと呼ばれる背景の壁を容赦なく照らし出している。

 今日は、本編で使用される衣装の最終フィッティングと、スチール写真の撮影が行われていた。

 ハンガーラックには、キャラクターごとに色分けされた大量の衣服が掛けられている。

 伊織はスタジオの隅に置かれた長机にノートパソコンを開き、香盤表《こうばんひょう》と衣装リストを照らし合わせていた。

 衣装合わせのスタジオ。

 伊織の目は、俳優の美しさではなく、生地の摩擦係数《まさつけいすう》と装飾品の鋭利《えいり》さだけをスキャンしていた。

 シルクの滑らかさは密着時の摩擦を減らすが、背中のコンシールファスナーの硬さは、相手の素肌を容赦なく切り裂く凶器に変わる。

 肌の露出を伴うシーンや、俳優同士が密着する場面において、衣服を脱がせる動作の際に引っ掛かりが生じて不自然な力が入らないか。

 薄手の生地が照明を透かし、俳優が意図しない形で身体のラインを曝け出してしまう危険性はないか。

 それらを事前に確認し、スタイリストや監督と擦り合わせを行うのも、伊織の重要な業務の一つだった。

 試着室のカーテンが勢いよく開き、桐谷蓮が姿を現した。

 桐谷は劇中で着用する、ゆったりとしたシルエットのルームウェアに身を包んでいる。

 三崎監督が桐谷の周囲を回りながら、生地のたるみ具合や丈の長さを鋭い視線で確認していく。

 伊織はノートパソコンから視線を上げ、桐谷の衣装の首元と袖口の形状に目を凝らした。

 劇中、桐谷が演じるキャラクターは、恋人役である遥斗に背後から抱きしめられるシーンが存在する。

 その際、襟元が過剰に引っ張られて首を絞めつける危険性がないかを、伊織は頭の中でシミュレーションしていた。

 桐谷は三崎監督の指示に従い、腕を上げたり、軽く前屈みになったりと、衣装の動きやすさを確認している。

 やがて三崎監督があごを引き、スタイリストにいくつかの微調整を指示した。

 伊織は立ち上がり、長机を離れて桐谷の元へと歩み寄った。


「桐谷さん。衣装の着心地はいかがですか」


「あ、榊さん。すごく軽くて動きやすいですよ。首回りも余裕がありますし」


「それは良かったです。一つだけ、事前にお伝えしておきます」


 伊織は桐谷の首元へ視線を向けた。


「首周りの動脈への圧迫は、医学的な危険だけでなく、脳に根源的な恐怖の錯覚を引き起こします。だから、撮影中に少しでも息苦しさを感じたら、演技を止めて事前に決めたセーフワードを口にしてください。あなたの心を守るのが、私の仕事です」


 桐谷は瞬きを止めて目を丸くし、やがて目元を和らげて柔らかく微笑んだ。


「はい。ありがとうございます、榊さん。すごく安心しました」


 桐谷が試着室へと戻るのと入れ替わるように、別のカーテンが開かれた。

 久世遥斗が、静かな足取りで照明の下へと歩み出てくる。

 彼が身に纏っているのは、細身の黒いスラックスと、胸元が少し開いたダークグレーのシャツだった。

 彼の演じるキャラクターが持つ、洗練された冷たさと内なる熱を体現するような衣装だ。

 スタジオ内の空気が、彼の登場に合わせてわずかに引き締まったように感じられた。

 伊織は手元のタブレット端末を手に取り、遥斗の衣装の細部を拡大して確認する。

 シャツのボタンの形状は滑らかで、相手の肌に触れても傷をつける恐れはない。

 生地の質感も柔らかく、密着した際の摩擦による不快感も少ないはずだ。

 遥斗は三崎監督の要望に応え、カメラマンの前でいくつかのポーズをとっている。

 その動きには一切の無駄がなく、衣服のシワの入り方さえも完璧にコントロールされているように見えた。

 彼の骨格は均整が取れており、筋肉のつき方も見事の一言に尽きる。

 過剰なトレーニングによるものではなく、役柄に合わせて緻密に調整された肉体だ。

 ふと、カメラのレンズを見つめていた遥斗の視線が、滑るように移動した。

 照明の逆光に目を細めながら、彼の瞳がスタジオの隅にいる伊織を正確に捉える。

 距離は一〇メートル以上離れているはずなのに、視線が絡み合った瞬間、伊織は首筋の温度が急激に下がるのを感じた。

 遥斗の表情は一切崩れず、すぐに視線はカメラへと戻された。

 伊織は短く息を吐き出し、タブレットの画面へと意図的に目を落とした。

 気のせいだ。

 ただ視界の端に入っただけのことだと、自分に言い聞かせる。

 一時間ほどで全キャストのフィッティングが終了し、短い休憩時間が宣言された。

 スタッフたちは機材の配置転換を始め、スタジオ内は慌ただしい足音と指示の飛び交う声で溢れかえった。

 伊織は長机の前のパイプ椅子に深く腰掛け、ノートパソコンの画面で報告書のフォーマットを整理していた。

 背後の通路を、大きな照明機材を抱えたスタッフが足早に通り過ぎていく。

 伊織は邪魔にならないよう、少しだけ椅子を机の方へと引き寄せた。


「榊さん」


 耳元に落ちてきた低い声に、伊織はタイピングの手を止めた。

 顔を上げると、いつの間にか遥斗が長机の前に立っていた。

 彼は先程のダークグレーのシャツのまま、片手に台本を丸めて持っている。


「お疲れ様です。衣装の着心地に、何か違和感はありましたか」


 伊織は瞬時に仕事の顔を作り、事務的なトーンで問いかけた。

 遥斗は首を横に振った。


「いえ。とても動きやすいです。ただ、少し確認しておきたいことがあって」


 彼はそう言いながら、伊織の隣にある空のパイプ椅子に視線を向けた。


「隣、座ってもいいですか」


 周囲には、他にも空いている椅子がいくつもある。

 わざわざ伊織の隣を選ぶ理由は、仕事の相談以外には考えられない。


「ええ。どうぞ」


 伊織が許可を出すと、遥斗は静かにパイプ椅子を引き、伊織と肩が並ぶ位置に腰を下ろした。

 彼が座った瞬間、微かなアルコールと新しい布地が混ざったような匂いが鼻腔をかすめた。

 遥斗は丸めていた台本を開き、机の上に置いた。


「第4話の、このシーンについてです」


 遥斗の長く形の良い指が、台本の特定の行を指し示した。

 そこには、遥斗演じるキャラクターが、桐谷の腕を掴んで引き留めるというト書きが記されている。


「腕を掴む際、衣装の袖を引っ張る形になると思うのですが、力加減によっては生地が破れたり、桐谷さんの関節に負担がかかったりしませんか」


 それは、主演俳優として非常に的確で、配慮に満ちた質問だった。

 伊織はノートパソコンの画面から視線を外し、台本の文字を追った。


 「桐谷さんの衣装は伸縮性の高い素材に変更されています。ある程度の力で引いても破れることはありませんし、関節への負担も最小限に抑えられるはずです。ただ、掴む位置は手首ではなく、前腕《ぜんわん》の中央あたりを意識してください」


 伊織はコーディネーターとしての知識を総動員し、よどみなく回答した。

 遥斗は伊織の説明に静かにうなずきながら、台本の余白にボールペンでメモを書き込んでいく。

 その横顔は真剣そのもので、先日の面談で見せた個人的な感情の揺さぶりなど、微塵も感じさせない。

 伊織は少しだけ安堵し、ノートパソコンへと向き直ろうとした。


 「前腕《ぜんわん》の中央、ですね」


 遥斗の声が、再び伊織の鼓膜を震わせた。


「どの程度の強さで掴むのが適切か、感覚を確かめておきたいんですが」


 遥斗はボールペンを置き、台本の上に右手を置いた。


「手、触っていいですか」


 伊織の指先が、キーボードの上で止まった。

 仕事上の確認として、力加減を相手と擦り合わせることは決して珍しいことではない。

 しかし、伊織はあくまで裏方のスタッフであり、実際にカメラの前で演じるのは俳優同士だ。

 本来であれば、桐谷本人とリハーサルで確認すべき事柄である。


「それは、桐谷さんとのアクション練習の際に確認していただいた方が……」


 伊織が言葉を濁して断ろうとした瞬間、遥斗が顔を向けた。


「桐谷さん相手だと、遠慮してしまいそうで。まずは榊さんで、力の許容量を知っておきたいんです」


 遥斗の瞳は、どこまでも理路整然とした光を宿していた。

 彼の主張は、俳優の役作りという観点から見れば、決して不自然なものではない。

 ここで過剰に拒絶すれば、かえって伊織自身が個人的な意識を持っていることを認める形になってしまう。

 伊織は小さく息を吐き出し、膝の上に置いていた左手を机の上に持ち上げた。


 「……わかりました。前腕《ぜんわん》の部分ですね」


 伊織が左腕を差し出すと、遥斗はゆっくりと右手を伸ばしてきた。

 彼の指先が、伊織のシャツの袖越しに肌へと触れる。

 その瞬間、スタジオ内の喧騒が遠のき、触れられた部分の熱だけが異常なほど鮮明に知覚された。

 遥斗の手のひらは温かく、少しだけ乾燥していた。

 彼は伊織の腕を包み込むように掴み、ゆっくりと指に力を込めていく。


「このくらいの力は、どうですか」


「……問題ありません。布の摩擦も許容範囲です」


「これなら?」


 遥斗の指先が、さらに強く伊織の腕を締め付けた。

 痛いわけではない。

 だが、その拘束力は確実に伊織の身体の自由を奪っていた。

 ただの力加減の確認であるはずなのに、遥斗の親指が伊織の腕の内側を滑るように動いたことで、脈拍の速度が急激に跳ね上がった。


「大丈夫、です。それ以上強く引くと、体勢が崩れる可能性があります」


 伊織は努めて平坦な声を取り繕い、腕を引き抜こうとした。

 しかし、遥斗の指はすぐには離れなかった。

 彼は伊織の腕を掴んだまま、ほんの数秒だけ、視線を伊織の目へと這い上がらせた。

 その瞳の奥に、隠しきれない熱情の片鱗が揺らめいているのを、伊織は確かに見た。

 遥斗は静かに手を離し、元の位置へと戻した。


「ありがとうございます。感覚が掴めました」


 彼は何事もなかったかのように台本を閉じ、立ち上がる。


「榊さんの意見、とても参考になりました」


 遥斗は小さく頭を下げ、再びスタジオの喧騒の中へと消えていった。

 伊織は机の上に残された左手を見つめた。

 布越しに掴まれたはずなのに、彼の指の形と熱が、火傷の痕のように生々しく皮膚に焼き付いている。

 仕事という大義名分を盾にして、彼は伊織の境界線をいとも簡単に踏み越えてくる。

 しかも、伊織自身がYESと言わざるを得ない状況を完璧に作り上げた上で。

 伊織は右手で左腕を強く握りしめ、自分の中に生まれつつある未知の感覚を、どうにかして封じ込めようと深く息を吸い込んだ。

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