↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インティマシー・コーディネーターの俺に、人気俳優が毎回「触っていいですか」と聞いてくる件~同意しか求めない年下の執着が重すぎる~  作者: 月夜 闇花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/16

第2話「静かなる侵犯」

「仕事外の接触は、推奨されていません」


 伊織は、声のトーンを一切変えずに答えた。

 それはインティマシー・コーディネーターとしての、最も安全で模範的な回答だった。

 個人的な感情を持ち込まないこと。

 俳優との適切な距離を保つこと。

 それが、この仕事の絶対的なルールだ。

 遥斗は伊織の言葉を聞き、わずかに目を伏せた。


「推奨されていないだけで、禁止されているわけではないのですね」


 その返答に、伊織は奥歯を強く噛み合わせた。

 言葉尻を捕らえられた。

 遥斗の口調はあくまで平坦で、挑発の意図は見えない。

 ただ、事実を確認しているだけだ。


「私の立場上、個人的な接触はお断りしています」


 伊織は明確な拒絶の言葉を口にした。

 これ以上、曖昧な言葉で逃げるのは危険だと判断したからだ。

 遥斗は静かにうなずき、パイプ椅子から立ち上がった。


「わかりました。無理を言って申し訳ありません」


 彼は深く一礼し、踵を返して会議室を出て行った。

 扉が閉まる音が、室内に虚しく響く。

 伊織は大きく息を吐き出し、背もたれに体を預けた。

 冗談だったのだろうか。

 それとも、何かのテストだったのか。

 真意は読めないが、あの瞳の奥に沈んでいた熱の質量だけは、伊織の記憶にこびりついていた。

 数日後。

 都内のレンタルスタジオで、本読みと顔合わせが行われた。

 長机がロの字型に並べられ、中央に三崎監督が座っている。

 伊織は部屋の隅のパイプ椅子に腰掛け、全体の様子を観察していた。

 俳優たちの発声、息継ぎのタイミング、視線の交わし方。

 それらを把握しておくことも、コーディネーターの重要な役割だ。

 遥斗は、桐谷の隣に座っていた。

 本読みが始まると、遥斗の纏う空気が一変した。

 先日の面談で見せた静けさは消え、台本の中のキャラクターの呼吸そのものになっている。

 桐谷との掛け合いも淀みがない。

 二人の間には、すでに確かな化学反応が生まれていた。

 三崎監督もあごを引きながら、時折細かい指示を出している。

 伊織は手元の台本に目を落としながら、遥斗の技術の高さを再認識した。

 感情の乗せ方、間の取り方、声の抑揚。

 すべてが緻密に計算され、なおかつ自然に空間へ放たれている。

 彼は間違いなく、天性の俳優だ。


「はい、一旦休憩にしましょう」


 三崎監督の声で、スタジオ内の緊張が解けた。

 俳優たちは席を立ち、思い思いに伸びをしたり、雑談を始めたりする。

 伊織も立ち上がり、凝り固まった肩を軽く回した。

 スタジオを出て、廊下の端にある自動販売機へと向かう。

 ブラックコーヒーのボタンを押し、硬貨を投入した。

 紙コップに液体が注がれる音だけが、静かな廊下に響く。


「榊さん」


 すぐ背後から声が落ちてきて、伊織の肩が微かに跳ねた。

 振り向くと、そこには遥斗が立っていた。

 彼は手ぶらで、ただ伊織の顔を見下ろしている。


「久世さん。お疲れ様です」


 伊織は事務的な挨拶を返し、出来上がったコーヒーを取り出した。

 遥斗は伊織の隣に並び、自販機のメニューに視線を向けた。


「隣、いいですか」


 遥斗が問いかけてきた。

 廊下は広く、自販機の前には十分なスペースがある。

 わざわざ許可を求めるような距離ではない。


「……どうぞ」


 伊織が答えると、遥斗は伊織から拳一つ分ほどの距離に立ち止まった。

 袖が擦れ合うかどうかの、絶妙な距離感だ。

 遥斗の体温が、服越しに伝わってくるような錯覚を覚える。

 伊織は紙コップの縁に口をつけ、ブラックコーヒーの苦味を喉の奥へ流し込んだ。


「本読み、どうでしたか」


 遥斗はミネラルウォーターのボタンを押しながら尋ねた。


「完璧でした。桐谷さんとの息も合っていますし、現場での調整もスムーズに進むと思います」


 伊織は仕事の顔で答えた。

 遥斗はペットボトルを取り出し、キャップをひねる。


「榊さんにそう言ってもらえると、安心します」


 彼はペットボトルに口をつけ、喉を鳴らした。

 その横顔を、伊織は無意識に視界の端で捉えていた。

 整った鼻筋、伏せられた長いまつ毛、動く喉仏。

 すべてが造形物のように整っている。


「榊さんは、元舞台俳優だと伺いました」


 不意に投げられた言葉に、伊織は紙コップを持つ指の力を強めた。


「……よくご存知ですね。もう随分前の話ですが」


「桐谷さんから聞きました。彼の先輩にあたるんですよね」


「ええ、まあ」


 伊織は言葉を濁した。

 過去の経歴を隠しているわけではないが、自分から積極的に話すことでもない。


「榊さんの演技、見てみたかったです」


 遥斗の視線が、伊織に向けられた。

 その目には、純粋な好奇心とは違う、もっと濃度の高い色が渦巻いている。


「たいした役者ではありませんでしたよ。だから、裏方に回ったんです」


 伊織は口角だけを上げて笑い、紙コップをゴミ箱に捨てた。


「そろそろ、休憩が終わります。戻りましょう」


 伊織は遥斗に背を向け、スタジオへと歩き出した。

 歩幅が少しだけ広くなってしまったことを自覚する。

 遥斗は伊織の後を、靴音も立てずについてきた。

 スタジオのドアに手をかけた時、遥斗の声が背後から降ってきた。


「ドア、開けてもいいですか」


 伊織は動きを止めた。

 振り返ると、遥斗の顔がすぐ近くにあった。

 彼の右手が、伊織の頭上を越えてドアノブに伸びている。

 伊織が少しでも動けば、彼の腕に触れてしまう距離だ。


「……どうぞ」


 伊織が許可を出すと、遥斗はゆっくりとドアを押し開けた。

 その動作には、一切の強引さがない。

 伊織が明確に拒否することは、絶対にしない。

 その手順の正しさが、今の伊織にとってはひどく息苦しかった。

 勝手に触れてくれた方が、よほど楽だ。

 そうすれば、明確に拒絶して線を引くことができる。

 しかし遥斗は、一つ一つの行動に必ず伊織の同意を求めてくる。

 YESかNOを問われ、YESと答える。

 その小さな承認の積み重ねが、伊織の境界線を内側から静かに侵食していく。

 カメラの回っていない場所で、彼らはただの俳優とスタッフだ。

 それなのに、足元の床板が少しずつ傾き始めているような予感がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。