第2話「静かなる侵犯」
「仕事外の接触は、推奨されていません」
伊織は、声のトーンを一切変えずに答えた。
それはインティマシー・コーディネーターとしての、最も安全で模範的な回答だった。
個人的な感情を持ち込まないこと。
俳優との適切な距離を保つこと。
それが、この仕事の絶対的なルールだ。
遥斗は伊織の言葉を聞き、わずかに目を伏せた。
「推奨されていないだけで、禁止されているわけではないのですね」
その返答に、伊織は奥歯を強く噛み合わせた。
言葉尻を捕らえられた。
遥斗の口調はあくまで平坦で、挑発の意図は見えない。
ただ、事実を確認しているだけだ。
「私の立場上、個人的な接触はお断りしています」
伊織は明確な拒絶の言葉を口にした。
これ以上、曖昧な言葉で逃げるのは危険だと判断したからだ。
遥斗は静かにうなずき、パイプ椅子から立ち上がった。
「わかりました。無理を言って申し訳ありません」
彼は深く一礼し、踵を返して会議室を出て行った。
扉が閉まる音が、室内に虚しく響く。
伊織は大きく息を吐き出し、背もたれに体を預けた。
冗談だったのだろうか。
それとも、何かのテストだったのか。
真意は読めないが、あの瞳の奥に沈んでいた熱の質量だけは、伊織の記憶にこびりついていた。
数日後。
都内のレンタルスタジオで、本読みと顔合わせが行われた。
長机がロの字型に並べられ、中央に三崎監督が座っている。
伊織は部屋の隅のパイプ椅子に腰掛け、全体の様子を観察していた。
俳優たちの発声、息継ぎのタイミング、視線の交わし方。
それらを把握しておくことも、コーディネーターの重要な役割だ。
遥斗は、桐谷の隣に座っていた。
本読みが始まると、遥斗の纏う空気が一変した。
先日の面談で見せた静けさは消え、台本の中のキャラクターの呼吸そのものになっている。
桐谷との掛け合いも淀みがない。
二人の間には、すでに確かな化学反応が生まれていた。
三崎監督もあごを引きながら、時折細かい指示を出している。
伊織は手元の台本に目を落としながら、遥斗の技術の高さを再認識した。
感情の乗せ方、間の取り方、声の抑揚。
すべてが緻密に計算され、なおかつ自然に空間へ放たれている。
彼は間違いなく、天性の俳優だ。
「はい、一旦休憩にしましょう」
三崎監督の声で、スタジオ内の緊張が解けた。
俳優たちは席を立ち、思い思いに伸びをしたり、雑談を始めたりする。
伊織も立ち上がり、凝り固まった肩を軽く回した。
スタジオを出て、廊下の端にある自動販売機へと向かう。
ブラックコーヒーのボタンを押し、硬貨を投入した。
紙コップに液体が注がれる音だけが、静かな廊下に響く。
「榊さん」
すぐ背後から声が落ちてきて、伊織の肩が微かに跳ねた。
振り向くと、そこには遥斗が立っていた。
彼は手ぶらで、ただ伊織の顔を見下ろしている。
「久世さん。お疲れ様です」
伊織は事務的な挨拶を返し、出来上がったコーヒーを取り出した。
遥斗は伊織の隣に並び、自販機のメニューに視線を向けた。
「隣、いいですか」
遥斗が問いかけてきた。
廊下は広く、自販機の前には十分なスペースがある。
わざわざ許可を求めるような距離ではない。
「……どうぞ」
伊織が答えると、遥斗は伊織から拳一つ分ほどの距離に立ち止まった。
袖が擦れ合うかどうかの、絶妙な距離感だ。
遥斗の体温が、服越しに伝わってくるような錯覚を覚える。
伊織は紙コップの縁に口をつけ、ブラックコーヒーの苦味を喉の奥へ流し込んだ。
「本読み、どうでしたか」
遥斗はミネラルウォーターのボタンを押しながら尋ねた。
「完璧でした。桐谷さんとの息も合っていますし、現場での調整もスムーズに進むと思います」
伊織は仕事の顔で答えた。
遥斗はペットボトルを取り出し、キャップをひねる。
「榊さんにそう言ってもらえると、安心します」
彼はペットボトルに口をつけ、喉を鳴らした。
その横顔を、伊織は無意識に視界の端で捉えていた。
整った鼻筋、伏せられた長いまつ毛、動く喉仏。
すべてが造形物のように整っている。
「榊さんは、元舞台俳優だと伺いました」
不意に投げられた言葉に、伊織は紙コップを持つ指の力を強めた。
「……よくご存知ですね。もう随分前の話ですが」
「桐谷さんから聞きました。彼の先輩にあたるんですよね」
「ええ、まあ」
伊織は言葉を濁した。
過去の経歴を隠しているわけではないが、自分から積極的に話すことでもない。
「榊さんの演技、見てみたかったです」
遥斗の視線が、伊織に向けられた。
その目には、純粋な好奇心とは違う、もっと濃度の高い色が渦巻いている。
「たいした役者ではありませんでしたよ。だから、裏方に回ったんです」
伊織は口角だけを上げて笑い、紙コップをゴミ箱に捨てた。
「そろそろ、休憩が終わります。戻りましょう」
伊織は遥斗に背を向け、スタジオへと歩き出した。
歩幅が少しだけ広くなってしまったことを自覚する。
遥斗は伊織の後を、靴音も立てずについてきた。
スタジオのドアに手をかけた時、遥斗の声が背後から降ってきた。
「ドア、開けてもいいですか」
伊織は動きを止めた。
振り返ると、遥斗の顔がすぐ近くにあった。
彼の右手が、伊織の頭上を越えてドアノブに伸びている。
伊織が少しでも動けば、彼の腕に触れてしまう距離だ。
「……どうぞ」
伊織が許可を出すと、遥斗はゆっくりとドアを押し開けた。
その動作には、一切の強引さがない。
伊織が明確に拒否することは、絶対にしない。
その手順の正しさが、今の伊織にとってはひどく息苦しかった。
勝手に触れてくれた方が、よほど楽だ。
そうすれば、明確に拒絶して線を引くことができる。
しかし遥斗は、一つ一つの行動に必ず伊織の同意を求めてくる。
YESかNOを問われ、YESと答える。
その小さな承認の積み重ねが、伊織の境界線を内側から静かに侵食していく。
カメラの回っていない場所で、彼らはただの俳優とスタッフだ。
それなのに、足元の床板が少しずつ傾き始めているような予感がした。




