第1話「同意の境界線」
防音扉の向こう側から、靴底が床を擦るくぐもった音が近づいてくる。
無機質な長机の上に、製本されたばかりの台本が置かれている。
榊伊織は手元のタブレット端末に目を落とした。
画面には、これから始まる配信ドラマのキャスト情報と、香盤表が表示されている。
空調の吹き出し口から流れる風が、伊織の額にかかる前髪をわずかに揺らした。
伊織はインティマシー・コーディネーターとして、この作品に参加している。
俳優同士の身体的接触を伴うシーンにおいて、演出の意図を汲みつつ、俳優の心身の安全を守るのが彼の仕事だ。
かつて舞台俳優として照明の下に立っていた過去は、とうの昔に手放した。
今はカメラの裏側で、線引きを行う裏方に徹している。
会議室の扉がノックされた。
入室してきたのは、本作で準主役を務める桐谷蓮だ。
桐谷は目元を緩めて口角を上げ、伊織の正面に腰を下ろした。
彼の口調は軽やかだが、台本を開く指先は極めて慎重だ。
伊織はタブレットの録音アプリを起動し、事前面談を開始した。
台本に記されたベッドシーンやキスシーンについて、どこまでの接触なら許容できるかを一つずつ確認していく。
桐谷は伊織の問いに対し、視線を逸らさずに答えていく。
自身の身体のどこを触れられても問題ないか、NGな箇所はないか。
プロフェッショナル同士の、体温を交えない淡々とした確認作業だ。
伊織は桐谷の回答を、正確に端末へ打ち込んでいく。
桐谷との面談は、予定通り十五分ほどで終了した。
彼は立ち上がり、深く頭を下げて退室していった。
入れ替わるようにして、再び控えめなノックの音が響く。
扉が開き、長身の青年が姿を現した。
本作の主演、久世遥斗だ。
清潔感のある白いシャツが、彼の均整の取れた体躯を包み込んでいる。
人気急上昇中の俳優でありながら、スキャンダルとは無縁の優等生。
業界内での評判もすこぶる良い。
伊織は立ち上がり、軽く頭を下げて彼を迎えた。
遥斗もまた、深く静かな一礼を返す。
彼が対面のパイプ椅子に腰を下ろすと、会議室の空気が少しだけ重さを増したように感じられた。
伊織は再び端末を操作し、定型的な挨拶から面談をスタートさせる。
遥斗の視線は、真っ直ぐに伊織に向けられていた。
その瞳は、窓からの光を吸い込むように暗く沈んでいる。
伊織は手元の資料に目を落とし、最初の項目を読み上げた。
「それでは、台本第3話のシーンから確認します」
伊織の声の波長は、一定のラインから決して外れない。
それは、相手に余計なプレッシャーを与えないための、彼なりの技術だ。
「桐谷さん演じるキャラクターからの、身体的接触についてです」
遥斗は静かにうなずいた。
「首への接触は、いかがですか」
「問題ありません」
「耳は」
「大丈夫です」
「腰は」
「衣服越しなら、構いません」
問いと答えが、規則正しいリズムで交わされていく。
遥斗の回答は明確で、一切の淀みがない。
声のトーンは低く一定に保たれ、耳に心地よく響く。
伊織はその声を聞き流しながら、画面をタップし続けた。
仕事中の伊織は、自身の感情を完全に切り離すことができる。
俳優の尊厳を守るためには、コーディネーター自身が揺らいではならない。
台本は中盤の、二人が決定的に結ばれるシーンへと進む。
「第6話、キスシーンについての確認です」
伊織は視線を上げ、遥斗の目を正面から捉えた。
遥斗のまばたきの回数は少なく、ただ伊織の言葉を待っている。
「事前のリハーサル通りの動きであれば、唇への接触は可能ですか」
「はい。台本通りなら、問題ありません」
「ディープキスなど、事前の取り決めにない接触があった場合は、撮影を止める権限が私にあります」
伊織は、相手が誰であっても必ずこの説明を挟む。
カメラが回っている最中でも、俳優の安全が最優先されるからだ。
「承知しています。榊さんの指示に従います」
遥斗ははっきりとした口調で答えた。
その態度は、まさに優等生俳優という世間の評価そのものだ。
伊織は指先の緊張を僅かに解き、最後の項目へと進む。
撮影現場での更衣スペースの確保や、露出を伴う際の前貼りの使用について。
それらの確認も、滞りなく終了した。
「私からの確認事項は以上です」
伊織は録音アプリを停止し、端末の電源を落とした。
「何か、ご不明な点や、不安なことはありますか」
これは形式的な結びの言葉だ。
ほとんどの俳優はここで首を振り、席を立つ。
伊織も、遥斗が立ち上がるものだと思っていた。
しかし、遥斗はパイプ椅子の背もたれから背中を離さない。
組まれた両手が膝の上に置かれたまま、微動だにしない。
会議室の静寂が、不意に質量を持った。
空調の稼働音が、やけに大きく鼓膜を叩く。
「一つ、俺から確認していいですか」
遥斗の声のトーンが、先程までの事務的なものから半音だけ下がった。
伊織は端末から手を離し、姿勢を正した。
「どうぞ。撮影環境に関する要望でしょうか」
「いいえ」
遥斗はゆっくりと瞬きをした。
そのまつ毛の影が、白い肌に薄く落ちる。
「榊さんに触れる場合の許容範囲は?」
伊織は息を呑んだ。
相手の意図を測りかねて、無言のまま遥斗を見返す。
インティマシー・コーディネーターに対して、俳優が触れる機会など存在しない。
伊織の仕事は、あくまで俳優同士の接触を調整することだ。
裏方である伊織自身が、カメラの前に立つ彼らと触れ合うことなどあり得ない。
「……それは、どういう意味でしょうか」
伊織は声の揺れを抑え込み、問い返した。
遥斗は依然として、穏やかな表情を崩さない。
「俺が、榊さんに触れる場合の話です」
伊織はわずかに眉根を寄せた。
「私はコーディネーターです。久世さんと身体的接触を伴う業務はありません」
「仕事の話ではありません」
遥斗の言葉が、冷たい水滴のように会議室のテーブルに落ちた。
仕事ではない話。
それはつまり、個人的な領域への踏み込みを意味している。
俳優とスタッフ。
その境界線を、遥斗は唐突に揺さぶってきたのだ。
伊織はテーブルの下で、微かに指先を握り込んだ。
遥斗の暗い瞳が、伊織のわずかな硬直を静かに観察している。
その視線には、威圧感も強引さもない。
ただ純粋な、問いかけだけが存在していた。
まるで、伊織がYESかNOを口にするのを、どこまでも待つつもりのように。
伊織はゆっくりと息を吐き出し、仕事の顔を貼り直した。




